1985年のPC6001mkIISR


 少し前、実家に電話したときのことである。用件を済ませると、母親が僕に聞いてきた。

「あんたの部屋の『あれ』けどさ、『あれ』捨ててはいかんとね(長崎弁)」
「『あれ』ねぇ・・・捨てなければならんのかね」
「部屋にストーブとか入れるとき、邪魔になろうもん」
「そうかねぇ・・・」
「もし捨てるとなれば、あれは普通のゴミにできんけん、手続きがいるし」
「早く決めてほしい、とな・・・んー・・・ああ、いいよ。捨てても・・・構わん・・・かなぁ?」

 どっちなんだよ。


 母親がこの件を切り出すのはこれが初めてではなかった。その度に僕は、ここでの『あれ』、すなわち実家の僕の部屋に置かれた PC6001mkIISR を捨てることを躊躇してきた。彼女が持ち出す理由はいつも違った。それらは実際性には即していたが、特に強力なものではなかったので僕を押し切ることはできなかった。が、僕にしても実家の部屋に転がる8ビット・パソコン(マイコンというのが正しいか?)にこだわる強い理由もなく、拒絶の口調はいつも曖昧だった。

 その日に廃棄を認めたのには特に意味はなく、単に気分の問題だった。しかし、電話を切った後、じわじわと後悔の念が湧いてきた。終いには母親に対する理不尽な怒りまで覚える始末だった。

 やはり僕はこだわっていたのだ。それなら何にこだわっていたのだろう。


 今回の文章の主人公たる NEC PC6001mkIISR を購入したのは、1985年、僕が小学校六年生のときだ。今となっては何ゆえ六本木パソコン(書いてて恥ずかしいぞ。確かそういう宣伝文句があったんだ)だったのか謎であるが、当時全盛を誇ったファミコンを買うのは親に許してもらえない雰囲気があったのだと思う。

 つまり、ゲーム専用機はダメだということだが、P6 にしても用途は九割方ゲームだったのだから、何をか言わんや、である。それならファミコンの方が経済効率も圧倒的によかっただろう。

 そもそも NEC のパソコンにしても、同級生が持っていた PC8801 を買いたかったのだが、これは値段の面で断念せざるを得なかった。15年前の長崎の話である。パソコン専門店も安売店もなかった。うちは貧乏じゃなかったが、少なくとも金持ちではなかった。

 そのような事情がありながらもパソコンを購入したのは、他の人とは違ったものを持っていたい、他と違ったものでありたいという普遍的な欲求にいきつくだろう。


 しかし、ゲームはカセットテープから読みこんでいたなんて、とても信じられない。今じゃフロッピー・ディスクで配布のゲームというのすらないが、そのときは件の同級生の PC8801 の5インチディスクの読みこみの速さが心底羨ましかった。ディスクが何秒単位なのに対して、テープだと十分近くロードなんてザラにある。まったくゲームを始めるまでに一回オナニーができるくらいだ。実際やったことがあるから、この点に関しては間違いない。

 しかし、それでも17ヶ国版「信長の野望」にハマり、「ブラック・オニキス」ではカラー迷路で往生し、今となっては撲殺もののハドソンの言葉探しアドベンチャーゲームに熱中していたのだからねぇ(「デゼニ」の "polish"、"attach"、「サラトマ」の "wait" と書いて、意味の分かる人は僕と同類だ)。


 愛機 PC6001mkIISR のゲーム以外の用途となると、山下章が連載していたアドベンチャーゲーム攻略法目的に買っていた「BASIC マガジン」に掲載されていた(というかこっちの方が主のはずだが)、読者からの投稿ゲームプログラムをシコシコ打ち込んでいたことか。やはりゲームだが、思えばこれがプログラマー歴の始まりということになる。しかし、悲しいかな BASIC を習得、という風にはいかなかった。

 あと欠かせないのが、PC6001mkIISR を喋らせていたことか! P6 の特色として、サウンド面の充実があったと思う。今となってはそれもオママゴトレベルであるが、「パソコンを喋らせる」というのは現在のパソコンにもない機能だ(というか誰も搭載しようなんて思わんのだろうが)。

 これを書いていて思い出したのだが、そのやり方(ホント簡単)を悪友に教えたところ、一緒に街に遊びにいったとき、石丸文公堂(すいません、ローカルで)のパソコンルームにあった P6 を使い、奴がとんでもないメッセージを喋らせやがったのだ。それも事前に音量を最大にしておくという確信犯。あのときは恥ずかしさのあまり悶死しそうになったぞ、新一郎!


 しかし、やはり P6 はスペック的に非力で、そうなると対応ソフトウェアも限られ、そうなると売上にも響き、ますます・・・という悪循環が始まっていた。「パソコンなんてソフトウェアがなければただの箱」という格言を実際に聞く以前に、僕はその意味を理解していた。

 人気ゲームがことごとく P6 をサポート外にしていたことへの苛立ちは今でも生々しく蘇ってくる。それは、熱中して解いた T&E ソフトの「ハイドライド」の続編が P6 で出ないと知ったときに頂点を迎えた。あれは悔しかったな。

 ただ一つ擁護しておくと、僕が今なお「史上最高のゲーム」と確信するセガの名作「スペースハリヤー」は、パソコンではまず P6 に移植されたのだ。そのニュースに狂喜し、発売されるやいなや僕は電気屋に走った。しかし、これが何故かパソコン専用モニタでは白黒でしか表示できないと書いてあるではないか。数十年前のテレビじゃないんだから、と泣く泣く購入を断念した。あ、やっぱり暗くなっちゃった・・・


 先日、IP メッセンジャーで会社の先輩から、「イースII」が「イースIIエターナル」として PC 用にリメイクされたことについての熱い文章が流れてきた。

 そうなんだよね。僕やもう少し上の世代にとって、「ザナドゥ」「イース」などのカタログを揃えた日本ファルコムは、特別な感慨を催させる会社である。現在は見る影もないが、当時は「ファルコム・マジック」とも言うべき魔法がかった雰囲気すらあったくらいだ。

 特に「イースII」については、PC88、PC98 ユーザにとっては特別な想いがあるのだろう。

 僕は P6 ユーザなので、「イース」シリーズについてはハナからサポート外だった。それより寧ろその前の「ザナドゥ」に関しては大変な渇望感を持っていた。それが Win95 用にリメイクされ、実際に3000円程度で購入したときに何とも不思議な気持ちになったことを覚えている。

 そして、僕が悔しさを噛みしめた「ハイドライド」シリーズにしても、今では1、2、3ともベクターからダウンロード(!)できてしまうのだ。こんな日が来るなんて思いもよらなかった。


 今回の文章を書くため、僕は件の「パソゲー辞典」を読んで思い出(実際にはやったことのないゲームが殆どなのだが)に浸っていたが、はて僕はいつから P6 で遊ばなくなったのだろうと考え、その契機を思い出し、僕は愕然とした。『それ』を忘れていたことに対してである。

 1987年、中学二年生のときだった。不本意な中間試験の結果に苛立ち、自分に対し怒り狂い、僕は自室の P6 を投げ飛ばし、データレコーダと本体をつなぐケーブルを破壊してしまったのだ。

 テストの結果に暴れるなんて何とも幼いしバカには違いないが、僕は当時の自分をそれほど卑下しようとは思わない。年齢背景を当てはめると、当時の僕は今年何かと話題になった「キレる14歳」みたいだが、それは否定したい。

 当時の僕は、勉強に自分の存在意義を見出していた。そしてそれに対し、必死でもあった。その必死さは、僕がこの十年のうちに失ってしまった人性の一つだ。それを少しでも苦く思うなら、当時の自分を嘲笑できるわけがない。


 しかし、僕はその人性と当時の自分を物語る重要な出来事をすぐに思い出せなかったのだからまったくヒドイ話だ。

 勿論そのこと自体を忘れたことはない。が、それは自分にとってとても苦々しいものには間違いなく、それについて自分でもあまり触れたくないと意識から、自然とそれを回避するうち、記憶自体は残っていても、そこに至る回路が錆付いたのかもしれない。

 早い話老化だろう。僕はそのことにも愕然とした。これから同じようにして、僕は自分を形作ってきた記憶に至る道筋を失っていくのだろうか。そしてその記憶自体をも。

 いずれにしろ、その出来事が僕の中高時代のコンピュータレス(なんて言葉あるのか?)を決定したとも言える。本体にもデータレコーダにも損傷はなかったが、専用のケーブルがなくてはゲームができない・・・わけはなく、実際は家庭用のラジカセでも代用できるのは知っていたが、それから離れたくて僕は破壊したのだ。気持ち的に P6 で遊ぶ気にはなれなかった。


 僕は大学で情報工学科に入り、再びコンピュータと関わるようになり現在に至るのだが、それはある意味偶然というか、少なくとも僕の強い意思があってのことではなかった。当時の僕は、何より第一志望の大学に落ちたことに茫然自失していた。

 それはともかく大学で、僕は大学祭の企画・実行をやるサークルに入ったのだが、何故かそこに P6 を持っていたという人間が三人もいた。類は友を呼ぶ、とはここで使う表現ではないだろうが、とにかく話は盛り上がった。久方ぶりに P6 でゲームがやりたくもなってきた。彼らに相談すると、日本橋で探せばケーブルなんて訳もなく手に入ると教えられた。

 彼らが言うほど簡単ではなかったが、とにかく日本橋でケーブルは手に入れた。ある店でゴミ同然に置かれてあったジャンク品として500円だったと記憶している。そんな価格なのだから、その脇に転がっていた1000円のデータレコーダも一緒に購入しておけばよかったと僕はすぐに後悔することになる。

 夏休みに入り帰省した僕は早速ケーブルを付け替え、実に5年ぶりに P6 で「信長の野望」をプレイしたのだが、その感動も束の間、今度はデータレコーダ本体が壊れてしまったのだ。


 これも運命なのだろう、と僕は P6 復興計画を諦めた。それしか楽しみがないということもなかったし、執着心もほとんどなかった。

 しかし、それから数年経ち、高校時代の同級生の家で飲んでいると、彼も P6 を持っていることを知った。彼の家には高校時代からかなりの回数泊まりに行っているのだが、灯台下暗しというのはこのことだ。早速訳を話してデータレコーダを譲り受けた・・・というか半ば強奪した。

 再度の感動の再会である。ちょうどベンジャミンが家に来たので、二人でビール片手に堀井雄二の最高傑作「オホーツクに消ゆ」をやりだした。おお、「カニガクイタイ」「キリノマシウコ」! と盛り上がったのだが、二人ともそのうち泥酔状態に突入していたせいか、いつのまにか行き詰まってしまった。ニポポ人形を二つ取ったりはしてないはずだが(以上は「オホーツクに消ゆ」をやった人でないと意味不明の文章なのをお断りしておきます)。

 そして・・・別のゲームをやろうとがちゃがちゃやっていると、またデータレコーダが壊れてしまった。一台目と全く同じ症状だった。何のことはない。同じ機種が同じようにして寿命を迎えたということだ。


 かくして実家の P6 は野ざらし状態になり、冒頭の会話に戻るわけだ。

 何ということだろう。あれから15年が経ったのだ。そして、その15年間僕の部屋に居座りつづけた愛機 PC6001mkIISR はその生命を終えようとしている。

 合掌。


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初出公開: 2000年11月20日、 最終更新日: 2002年07月13日
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