三つの小話


 まず最初に小話を一つ。

 これは遠い昔のある村での話。その村には医者が一人しかいなかったが、その医者は村の皆から好かれていた。つまり、どんな遅い時間に訪ねても嫌な顔一つせず診察してくれ、貧しい人から治療費を取りたてることもせず、患者の悩みに親身なって耳を傾け助言を与える、そんな善人だったのだ。

 その彼が天寿を全うし、天に召された数日後、その村のある家での母娘の会話。

娘「きっといま神様は今具合がわるいのね」
母「どうしてそう思うの?」
娘「だってあのお医者さんがおなくなりになったでしょ。きっと神様が自分の病気をなおすためのあの人をお呼びになったに違いないわ」


 日本人は国際的な場でのユーモアに欠けると言われて久しいが、本質的に改善される気配はないようである。国民性がそんな簡単に変ってたまるか、と主張される方もおられるだろうが、問題はユーモアの欠如について危機意識のない日本人の感性にある。

 それなら、何故ユーモアが必要なのか。

 それはユーモアが人をひきつけるからである、と書くと、分かりきったことだ、と怒られそうだが、本当にそうだろうか。

 人間の心に最も強い印象を残すのが、笑いと恐怖である。後者には脅迫、暴力などが絡んでくる場合があるのでフォーマルな場での交渉には向かない。しかし、笑いは違う。年配の方はそれを特に軽蔑する傾向にあるが、それは日本人の「しかめっ面信仰」にあると思う。つまり、俺は真剣なんだ。真面目なんだ。笑いなんかで話の腰を折りたくはない。ユーモアなんぞ軽薄だ。そんなの不謹慎だ・・・しかしその彼らの話は退屈極まりない。

 彼らはユーモアの意味を取り違えているのだ。欧米人がスピーチの初めにジョークを入れるのはふざけているのではなく、聴衆の注目を集めるためで、彼らはそうやって自らを売り込んでいるのである。

 それに引き換え、しかめっ面の棒読みスピーチは聴衆に対して自分(また自分の意見)を売り込むのに不熱心であるとされても文句は言えないのだ。


 ここで二番目の小話

 アメリカの片田舎のある村に一人の老人がいた。彼はその生涯を通して共和党の熱心な支持者であった。その彼が、民主党に鞍替えしたという噂が村に広がった。

 老人の親友がその噂を確かめるべく彼の家に乗り込んだ。

友人「あんたが民主党支持者になったという噂を聞いたが嘘だろう」
老人「いや、ほんとのはなしさ」
友人「こりゃたまげたね。何で今頃になって・・・もしかしてお前も耄碌したのかね」
老人「失礼な。わしはこの通り元気じゃ。だがな、だからこそ民主党に鞍替えしたのじゃ」
友人「それはどういう理屈かね」
老人「分からんかね? わしは今は元気じゃが、そう長くないことは分かっている。それでだね、わしとしては共和党員が死ぬと考えるよりも民主党員が死ぬと考えた方が嬉しいのじゃよ。それでまだ元気なうちにそれを表明したまでさ。これで心安らかに死ねるよ」


 政治はジョークのネタになることが多く、当然政治家個人もその対象になる。それは時に彼らに対する風刺、揶揄、非難を含めての大衆の政治家に対する感情を映す鏡でもある。欧米の政治家が言うジョークには真剣に面白いものが多く、その人となりをよく表している。JFK、リンカーン、チャーチルといった大物になると彼らが語ったジョークの類だけで本が作れるくらいだが、現在彼らが語ったものとして知られているジョークの多くは、後世の作り話だという。それも当然の話で、そうやって大衆の願望も反映しながら現代における彼らの評価が決まっていく。


 そして最後の小話だが、この話も本当にあった話かは責任を持てない。

 第二次世界大戦において、ユダヤ人のホロコーストを指揮したアイヒマンは戦後アルゼンチンに逃亡した。しかし、イスラエルの地下組織の執念の捜査により、捕らえられ、誘拐されてしまう。イスラエルで行われた裁判の判決は当然ながら、死刑。

 判決が決まった後、裁判長はアイヒマンに、最後に何か望むことはないかと促した。アイヒマンは少し考え、「ユダヤ教に改宗したい」と言った。

 これには裁判長も驚いた。ユダヤ教に改宗するとは、ユダヤ人になることと同義だからだ。困惑した裁判長はアイヒマンにその理由を問うた。アイヒマンはニヤリと笑って答えた。

「これでまた一人ユダヤ人が殺されることになりますから」


 ここまで読まれた方なら気付かれたと思うが、三つの小話はいずれも同じネタといっていいものである。「ジョークとセックスに新しいものはない」とは誰が言った言葉か、けだし名言である。

 しかし、(話の年代が)古いものから並んでいる三つの話を比べてみると、相違点もはっきりしてくる。後ろにいくごとに、ブラックさ加減が増していくのだ。

 これが恐らくは現代のユーモアの在り方なのだろう。生きている間、政治家、法王といった権力者を破廉恥に風刺し続け、そしてエロ話をしながら笑い死にしたという伝説を持つピエトロ・アレッチノを産んだ、ルネサンス期から、人間は余りに遠くに来てしまったようである。


 考えてみれば、笑いというものを僕は前半部で称揚しているが、実はそれを生業にした人間の人生というのは悲惨な場合が多い。

 先程、笑いと恐怖を並べて扱ったが、両者に付随するものは実は同根ではないかという気がする。ビートたけしも、自身が監督した映画の暴力描写について問われたときに、「自分は元々お笑いの人間だが、それはひどく暴力的なもので、どちらに転んでもおかしくないものだ」と答えている。


 やはりここまで話をすすめると、笑い、ユーモアというものが一義的でない、という地点までたどり着いてしまう。しかし、これ以上解析していく体力(筆力)がないのでこれで今回のコラムを終了したいと思う。

 但し、最後に書いておきたいことがある。日本人は文化的にお笑いを差別している部分があるが、テレビというメディアにおいては、お笑いというのは最も偉く、かつ尊いものであるのだ。つまり、現時点では、役者を気取る鶴太郎のような小物より、ブリーフ一丁になれるビートたけしの方が素晴らしいし、それよりまだ現役である松本人志の方が偉いし、更にそれよりも一切の意味付けなしに笑わせるMr. ビーンの方がもっと凄く、でもやはり俺にとってはモンティ・パイソンが一番だぜ! ということなのである。


[前のコラム] [コラム Index] [TOPページ] [次のコラム]


初出公開: 1998年01月、 最終更新日: 2002年07月14日
Copyright © 1999 yomoyomo (E-mail: ymgrtq at yamdas dot org)