僕が将棋のことを語ると、このくらい饒舌になってしまう


将棋についての文章を前々から書けと急かされていたのだが、読者を限定させてしまうことを恐れ、書かずにいた。しかし当サイトを閉鎖する前に、一度は書くべき文章は早めに書いておこうと決めた。この文章は double crown さんに捧げるものである。

 アメリカ映画なんかで、男性が野球に夢中になるのを女性が揶揄する場面がある。何年のどこの球団のどこのポジションが誰かって即座に言えるんだからと女性が嘆くと同時に、男二人がそれを嬉々として言い当てる場面があったのは「シティ・スリッカーズ」だったっけ。

 ワタシは将棋ファンであるが、この人種にとっては順位戦を語るのがそれに近いかもしれない、と思ったのは、コンビニで週刊文春の先崎学の連載を立ち読みしたときである。

 将棋を知らない方からすれば「順位戦? それ食えるのか?」という感じであろう。少し解説しておくと、プロ将棋界には上からA、B1、B2、C1、C2という五つのクラスがあり、そのリーグ戦により、クラスが上がったり下がったりする。そしてA級の一位が名人戦の挑戦者となり、名人戦の勝者が名人になる(あたりまえだが)。

 先崎が書いていたのは昭和61年3月に行われたA級順位戦プレーオフにおける米長邦雄と大山康晴の対局のことで、「ああ、あの年のA級順位戦はすごかったよな」と最近すっかり回転が鈍くなった頭の中を十数年前の将棋の棋譜やら、エピソードが怒涛のごとく駆け巡った。別にワタシ自身が戦ったわけでもないにも関わらず(そりゃそうだ)。

 考えてみればおかしな話である。一般レベルで将棋が話題になるのは、主に新聞社が主催するタイトル戦の結果である。羽生善治が七冠王になった、とかね。タイトル(名人戦)の前哨戦にあたる順位戦が将棋ファンを一番熱くさせるというのはファン以外には伝わりにくいものがあるだろう。


 その理由は、順位戦に棋士の生活がかかっていることにある。例えばA級順位戦を考えた場合、リーグを構成するのは十名で、その一位が名人戦挑戦者になるのはさきほど書いたが、下位二名はB1に降級してしまう(B1級の上位二名と入れ替わり)。降級するとどうなるのか。簡単に書けば、年収が凡そ三割減になる。他のクラスについても同様で、降級の苦しみは昇級の喜びの比ではない。だから、棋士は自分の生活を守るため、順位戦は全身全霊で戦う。A級順位戦の最終戦のある日が、「将棋界の一番長い日」と呼ばれるのはこのためである。

 ファンにしても、A級順位戦において最も興味があるのは、誰が名人挑戦者になるのか、ではない。誰が降級するか、である。残酷であるが、その残酷さゆえにドラマが生まれる。それにファンは最大限の声援を送る。

 これから昭和60年度のA級順位戦について書くが、手元にはほとんど資料がないし、面倒なのでネットで裏を取ることもせずにとにかく思い出したまま勢いで書かせてもらう(段位などはすべて当時のもの)。事実誤認などもあるかもしれないので、気付いた方はメールで教えてください。ここに書かれるエピソードの主なところは、河口俊彦の本からの(記憶からの)引き写しだと思ってください。畢竟、(多くのオールドタイプの将棋ファンと同様)ワタシも河口史観論者なのである。


 昭和60年度のA級順位戦は、通常よりも一名多い、11名で戦われた(名人は中原誠)。これは前年大山康晴十五世名人が癌手術のために休場したためである。このとき大山は将棋連盟の(ワンマン)会長でもあり、タイトルこそすべて失っていたが、将棋界の中心にいた。その大山も癌となれば体力が落ちるし、順位戦を戦うのはどうだと危惧する声もあった。何しろ順位戦は持ち時間が各六時間である。朝の10時に始まり、終わるのは日付が変わった後であることも多い。ある意味体力勝負でもある。

 近年では中原誠がA級陥落したときも話題になったが、名人経験者、それも永世名人(五期名人位を保持)クラスになると、A級以外では指せないという暗黙の認識があった。つまりは引退である。しかし、史上最強の棋士である大山の欲望は常人には計り知れない。前半戦が終わった時点で4勝1敗、桐山九段と並び堂々のトップに立った。当時、大山は「癌になるというのはいいものだよ」と皮肉げに言っていたという。「だって、自分がひょっとして癌じゃないかと心配する必要がないのだから」周りはどう反応してよいか困っただろう。

 順番が前後するが、このときのA級のメンバーは、(順位順に)谷川浩司前名人、森安秀光九段、森けい二九段、米長邦雄、勝浦修九段、桐山清澄棋王、加藤一二三九段、青野照市八段、有吉道夫九段、二上達也九段、そして大山であった。この年の順位戦が印象深かったのは、何より史上まれに見る大混戦であったこと。そして、最終的にプレーオフで戦うことになる大山と米長の壮絶な戦いぶりにある。


 大山の前半戦の成績については書いたが、このとき米長はどうだったかというと、まったく逆で1勝4敗だった。この年は構成人数が多いので、降級も三名と一名多い。まさに大ピンチであった。

 昭和50年代中盤から、米長邦雄は最盛期を迎えていた。昭和60年には、大山、中原以来の四冠王(十段、棋聖、棋王、王将)にもなっていた。当時米長ファンは、「世界一将棋の強い男」と彼をもてはやした。しかし、この表現にはファンの屈託もあらわれている。囲碁と違い、将棋はほとんど日本でしか指されていない。わざわざ「世界一」と書く必要もないはずなのだ。それをあえてそう呼んだのは、米長がいろいろなタイトルを取り、中原・米長時代を築きながら、どうしても名人位をとれなかったことにある。

 現在では賞金額で読売新聞の主催する竜王戦に劣るのだが、名人位の将棋界での位置付けには独特の権威があった。それは件の米長自身が最初の名人挑戦のときに、「名人は選ばれたものだけがなる」という言葉であらわした。理屈の上では名人戦で先に四勝すれば名人になれる。しかし、周りから名人位にふさわしいと認められていない棋士は、名人にはなれないと半ば信じられていたし、確かに大内延介九段や高橋道雄九段などは、あと一歩まで中原誠を追い詰めながら勝ちきれなかった。


 その誰もうなずいた言葉に米長自身が縛られることになったのは皮肉である。自分は名人にふさわしい棋士であるという自意識が足枷となり、それまで三度中原に名人戦で敗北を喫していた。

 そして四冠王になったのも束の間、米長はすぐにスランプに陥る。王将戦で中原に敗れ、棋王戦ではカモ筋にしていた桐山に負けた。この棋王戦のときなど対局中に心臓発作を起こすなど、当時タレント並みの多忙を極めた生活が明らかに米長の将棋に悪影響を及ぼしていた。米長の人間性についてはさわやか流(これについては毀誉褒貶あるのだが…)、将棋は泥沼流などと言われていたが、まさに泥沼にはまっていたわけだ。

 この当時のことを河口俊彦が書いている。米長、河口とあと数人で食事をしたとき、若手棋士が持っていた週刊将棋に米長が目を止めた。一面に米長が順位戦で1勝4敗降級赤ランプとでかでかと書かれてあった。「これはホントかね」と米長が呟いた。「その星じゃあね」と河口は仕方なく正直に答えた。米長は出てきたステーキに手をつけず数十分その紙面をみつめ続け「みんな楽しんでるな」と呟いた。その後新宿に出ると、休みだと分かっている店に何度も行こうとしたりして、正直頭がおかしくなったのではないかと河口は思ったそうである。


 しかし、米長は後半戦になり、有吉道夫との順位戦で必敗の勝負をひっくり返したことで、立ち直りをみせる。その後は順位戦は連戦連勝、その他の棋戦でも棋聖戦を防衛、名将戦で谷川浩司を破り優勝、十段戦でも中原をフルセットの末破り防衛した。

 米長が星を伸ばすとともに上位者が星を落とし、A級順位戦は大混戦となった。最終戦を前にして、加藤、大山が6勝3敗、米長が5勝4敗、桐山が5勝5敗、そしてそれ以外の谷川、森安、森、勝浦、青野、有吉、二上の七人が4勝5敗であった。名人挑戦の可能性があるのは加藤、大山、そして米長の三人、一方降級の可能性があるのは4勝5敗の七人全員というとんでもない状況で、上位の森安や森は、4勝で助かる目処が立たなくなったとぼやいた。

 そして最終戦の取り組みは、谷川−大山、森安−有吉、森−勝浦、米長−青野、そして加藤−二上であった。

 既に全対局を終えていた桐山だけが昇降に関係がない。桐山の将棋は「いぶし銀」と呼ばれ、プロがあきれるほど渋い将棋でならした。当時棋王のタイトルを持っており、その後棋聖位も獲得するのだが、あくまで名脇役の役回りを演じた人である。この数年後、彼は大山とA級陥落をかけて最終戦を戦うことになった。将棋会館で大盤解説を行った先崎学は、かけつけたファンに向かって「今日は歴史に残る日になるかもしれません」と煽った。つまりは大山が降級→即引退の可能性をいったわけだが、その日桐山は一歩も動かない地味な将棋で大山に敗れた。ワタシなどは、その負け方にこそ桐山らしさを見たように思ったものだ。ここで書く順位戦にしても、彼だけ日程を終えて蚊帳の外というのも彼らしい…というのは言いがかりなのだが。


 取り組みを見れば分かるが、森安−有吉、そして森−勝浦の対戦は、「負けたら落ちるデスマッチ」である。一流であるという誇り、そして収入がこの一戦にかかるのだ。結果から言うと、森安−有吉は、有吉が勝った。現在ではクラスを大きく下げてしまったが、有吉という棋士の素晴らしさは、こうした首のかかった一戦での強さにあった。この凡そ十年後もA級にいた有吉は、二年続けて中原、谷川という最強の相手を順位戦の最終戦で下してA級残留を決め、「火の玉流」健在をアピールした。

 一方、破れた森安は悲惨だった。A級二位の自分が、4勝を挙げて落ちるとは思ってなかっただろう。森安は、翌年のB1級順位戦でも降級し、よもやの二年連続降級となった。「だるま流」と称された粘り強い将棋は、苦労して勝つ将棋の見本であり、負けたときの凄惨さは目を覆うものがあった。当時の森安は酒に溺れ、大変な状況であったらしい。しかし、彼は数年後B1に復帰し、立ち直りを見せる。棋才は抜群なのだ。将棋にも以前にはなかった枯れた感覚も出てきて、A級復帰もあるかと思われた矢先、彼に悲劇が襲った。中学一年生の息子に惨殺されてしまったのだ。ワイドショーに出演した盟友の内藤國雄九段は、「結婚式の仲人をした彼の弔辞を読むことになるとは思わなかった」とコメントし、テレビの前のワタシはうなだれるしかなかった。


 森−勝浦の対戦となると、更に勝負の厳しさが露になる。この二人は仲が良く、昭和60年の同時期に九段に昇段した二人は、合同で昇段祝いのパーティを行い、「首がつながっている(=A級にいる)間にやっておかないとね」と笑いあった。しかし、本当にその二人で斬り合いをやるとは思ってなかっただろう。

 将棋は常に森ペースであった。森けい二という人は感情が表に出やすいタイプで、優勢裡の将棋がうれしかったのか、勝浦の前で体操を始める始末だった。勝負もきっちり勝ちきった。

 彼は名人挑戦時、剃髪して丸坊主で現れ周りを驚かせたり、「勝負に負けた棋士には一銭もやるな」などの数々の挑発的な発言を行って叩かれたりした野性派の棋士で、「終盤の魔術師」とも呼ばれた。絶対不利の予測の中、「俺が体で覚えた将棋を教えてやる」と豪語して谷川を破り王位を獲得したり(このときの谷川の前でVサインを掲げた写真は印象的だった)、五十歳でA級に復帰したり、定期的にその異才ぶりを発揮する彼の人気は高い。そういえば先崎学が四段昇進(四段からプロ棋士になる)に際して書いた文章は、森けい二の将棋に魅せられたことを綴り、師匠の米長邦雄の名前が出てこないという異例(笑)のものだったっけ。団鬼六の畢生の名作「真剣師・小池重明」を読んだ人は、小池重明に三連敗した人ということで記憶に残っているかもしれないが…。


 さて、問題は名人挑戦のからんだ残り三局である。ファンは米長奇跡の名人挑戦を期待したわけだが、それには米長が勝ち、加藤が負け、なおかつ大山も負けないとプレーオフにならない、という蜘蛛の糸状態だった。しかし、将棋会館がファンで満員になったということは、数字上の可能性以上のものを彼らが求めていたことが分かる。

 加藤一二三は第八戦が終わった時点で6勝2敗という有利な立場にいながら、名人挑戦を決められなかった。今思うと、この年挑戦者になれなかったことで、加藤はタイトル戦に絡む超一流の位置から一流棋士に転落してしまったといえる。これを転落と呼ぶのは酷い言い草であるが、何しろ「神武以来の天才」と呼ばれた人である。これは明らかに衰えだろう。

 今年残念ながら、A級から陥落してしまったが、60歳を越えてA級を守った加藤九段の勝負強さは賞賛に値するもので、先に書いた有吉同様、プロは(そしてコアなファンは)こうした強さこそに敬意は払うのである。

 その最終戦の対戦相手だった二上は現在の将棋連盟会長であるが、かつて「貴公子」と呼ばれた棋才も当時はっきり衰えを見せていた。この年、最終戦で加藤を下して(その前には谷川を下している)A級の座を守ったのは、彼の現役人生最後の輝きであったと言える。


 この日の主人公である米長は、大阪で行われている谷川−大山戦が谷川有利であることを確かめ、加藤−二上戦が行われている部屋に行き、加藤の真向かいに立ち、二上の勝ちを確認してから、自分の対局に戻りきれいに青野の玉を詰ませた。

 二上が勝ったとき、将棋会館につめかけたファンから歓声が上がったそうだ。深夜になり、粘っていた大山が力尽き、1勝4敗からの奇跡のプレーオフが実現した。ほぼ安全圏にいたとは言え、谷川は大山を下すことで、前名人としての意地を見せたことになる。

 プレーオフは、順位の関係で最初に大山と加藤が対戦し、その勝者が米長と戦い、名人挑戦者が決まる。つまり、米長はあと一勝でよいわけだ。

 名人挑戦者決定戦である米長−大山戦は、三月の時期外れの大雪の降った日に行われた。

 このとき米長の心理は容易に想像できる。とうとう自分が名人になるときが来たと思っただろう。米長の考えの根底には、ある種の運命論、人間の力を超えた時の流れ、波に関する考えがある。プレーオフにいたる幸運は、自分が「名人に選ばれた」からこそ、と思っただろう。ここに罠があった。彼は自分の運に頼りすぎたのだ。

 そこを稀代の勝負師である大山は見抜いていたのだろう。色紙に「忍」の文字を書き、常々「最初のチャンスは見送る」と語る受けの達人が、中盤早々、自分の玉頭から積極的に動いた。大山の将棋には「人間誰しも間違いをおかす」という人間蔑視の眼が光っている、と評したのも河口俊彦だが、大山が偉大だったのは、その眼の自分にも向けることができたところだ。自分の力を客観的に評価し、普通にやっていては勝てないことを冷静に判断できたのだ。米長はただ振りまわされ、何の手も出せないうちに致命的な一発をくらってしまう。


 大一番なので勝負が決まるのは遅くなるだろうという予測があり、また大雪という天候上の理由のため、夕方近くになって勝負どころを見ようと将棋会館にやってきた棋士は一様に絶句した。夕食前の時点で、もうどうにもならない形勢になっていたのだ。

 大山は米長の将棋をある程度認めていたが、人間的に嫌っていたのは有名な話である。しかし、この当時既に二人の実力は逆転していた。この年の順位戦にしても、米長の1勝4敗の一勝は大山からあげたものだし、その数年前、二人は棋王戦と王将戦のダブルマッチを戦い、それまでの苦手意識を感じさせない戦いぶりで、米長は大山を両方で叩き潰し、大山の60歳にしてタイトルホルダーになるという野望を打ち砕いていた。片や指し盛り、片や癌の手術明けという事情もある。どう考えても米長が負ける要素はなかった。米長自身そう思っていたのだろう。投了図はみるも無残なもので、米長の未練だけが伝わるものだった。

 大山が名人挑戦を決めた、というよりも大山が米長の夢を砕いた、さらに言えば、大山が勝ったというより米長が負けた、といえる。そうして昭和60年度の順位戦は幕を閉じた。普通棋士は負けると一人姿を消す。米長のようにプライドの高い人の、しかもこのような大一番の敗戦後となれば尚更である。しかし、米長は河口や編集者を誘い、飲みに出かけた。深夜であり、大雪のため、ホテルのバーしか開いてなかった。そこで米長は、近松の心中ものについての話を綿々としたそうだ。こんなときに男女の愛欲の話は似合わないな、と河口はぼんやり思ったそうだ。米長が悲願の名人位を獲得するのには、奇しくも大山が鬼籍に入った翌年であった。


 …さて、ここまで一気に数時間で書き、へとへとになってしまったのだがいかがだろう。ここまで読んでくれた人なんていないのだろうな。将棋ファン以外の人にも読んでもらうことを想定して書いたのだが、ただ暴走した文章になってしまったようだ。まあ、仕方ない。これぐらいワタシはいくらでも将棋のことを書き続けることができるということだけ確認できただけでもよしとするか。でも、これが最初で最後だろう。

 ここまで読んでくれた人でも、羽生善治、森内俊之、佐藤康光といった、現在タイトルを争う人達の名前が全然出てこないことに不満を持たれたかもしれない。それは題材にしたのが昭和60年の順位戦で、当時彼らは奨励会(プロ棋士養成機関)にいたのだから仕方ないのだが、この選択は(先崎のコラムがきっかけとなったとはいえ)意図的なものである。

 つまり、この時期のトップ棋士は、簡単に言えばキャラが立っているのだ。もちろん現在のトップ棋士についても書くことはできる。しかし、上のように生き方と将棋を重ね合わせて書くことはできない。飽くまで個々人のエピソードになってしまう。

 最後は見事にオールドファンの偏見に満ちた繰り言になってしまった。こんな文章を書くのが老化現象なのは間違いない。まあ、名人挑戦でなく残留のほうに感情移入する気質自体、後ろ向きな人生を歩んでいる証拠なのだが。


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初出公開: 2002年04月01日、 最終更新日: 2012年12月18日
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