著者: Jimmy Wales
日本語訳: yomoyomo
以下の文章は、Jimmy Wales による Free Knowledge requires Free Software and Free File Formats の日本語訳である。
プロプライエタリなソフトウェアのほうが便利だったり、特定の用途に適しているかもしれない場合でさえ、僕が頑固に WikiPedia は必ずフリーソフトウェアを使わねばならないと主張することの理由をときどき尋ねられる。
結局のところ、我々の使命は自由な知識を生み出すことであり、フリーソフトウェアを推奨することではないのだから、(ウェブアプリケーションには大抵の場合フリーソフトウェアが最良なので)実用上フリーソフトウェアのほうが好きだとしても、それに頑固にこだわるべきではない、という方に議論が行く。
僕はこの議論はすごく間違っていると思う。それは単に実用上の話ではなく、主義の問題なのだ。自由な知識には自由なソフトウェアが必要である。我々の使命を、我々の主義と何かしら別のものだと考えるのは、コンセプト的に間違っている。
自由な知識とは何か。自由な百科事典とは何か。その本質は、自由なソフトウェアのことを分かっている人なら誰でも即座に理解できるものである。自由な百科事典、またそれに限らずどんな自由な知識も、誰かの許可を得ることなしに自由に読むことができる。自由な知識なら、他者と自由に共有できる。自由な知識なら、その人独自の用途に合わせて改変できる。そしてその改変したバージョンも、他者と自由に共有できる。
我々は、気が遠くなるほどいろんな知識の詰まった大規模なウェブサイトを作っている。もし我々がプロプライエタリなソフトウェアを使ってこのウェブサイトを作ることにすれば、我々の知識を利用して我々がやっているのと同じことをやりたいと考える人たちに、乗り越えられない障害物を置くことになりかねない。我々の成果の独自の複製を作成するためにプロプライエタリなソフトウェアのベンダから許可を得る必要があるとなると、それはもう自由とはいえない。
プロプライエタリなファイル形式の場合、状況はもっと悪くなる。説得力はないが、Wikimedia のコンテンツを簡単に既存のフリーソフトウェアでロード可能である限り、内部でプロプライエタリなソフトウェアを使うのもそう悪くないとも言える。しかしプロプライエタリなファイル形式となると、この魅力的な詭弁すら使えない。我々が情報をプロプライエタリであったり、特許の足かせのあるファイル形式で提供すれば、自由に対する責任に反するだけでなく、自由な知識ということになっているものを利用したい他の人たちに、プロプライエタリなソフトウェアを使うよう強いることになってしまう。
つまりは、我々は世界を変える知識の革命の先導を務めるコミュニティのことを決して忘れるべきではないのだ。我々は最先端のイノベータであり、プロプライエタリの制約から自由な知識を広める世界規模の運動の指導者なのだ。今から100年後、プロプライエタリな教科書や百科事典という概念は、今医学にヒルを使うのを検討するのと同じくらい奇妙で縁遠いものに思えるようになるだろう。
我々の成果を通し、この星の皆が自由な知識に安価にアクセスすることで、何でもやりたいことができる力を与えることになる。そして僕がここで言いたいのは、これは意味のないファンタジーなんかではなく、我々はそれを既に達成しつつあるということ。我々は、世界の広い範囲で未だほぼまったく知られていない愛と協力という規範を用いる、世界でも最大級のウェブサイトの一つになったのだ。しかし、我々はその主義と成果の両方で知られているし、これからもそうである――その主義こそが、成果を可能にしたのだから。
その目的のために、Wikimedia 財団が所有するすべてのコンピュータでフリーソフトウェアを常に利用していること、そして我々の自由な知識が本当に自由であることを実現するのに常に最大限の努力を傾けていることをを強い誇りとすべきである。そのおかげで利用者は、閲覧、修正、そして再配布に合わせてプロプライエタリなソフトウェアを利用するよう強いずに済んでいるのだ。