「日本におけるblogの過去・現在・未来」の自作解題以下


 すぐに自作解題を書くと書いたくせに、多忙のためすっかり時間が開いてしまった。HotWired Japan に特集が公開された直後に書き出してはいたのだが、事情があって一旦すべて破棄させてもらった。そして結局、満足に仕上げることができなかった。申し訳ない。もううちの読者すら忘れているだろうし、このままお蔵入りにしようかと思ったが、先週の13日の金曜日に車の追突事故に遭い、踏ん切りがついた。

 ただし書いている話題はほぼ書き出したときのままなので、半月前には公開されてしかるべき文章であることにご注意いただきたい。まあ、4月半ばに依頼を受けて5月始めに原稿を送り、そして公開されたのは5月末という元の文章の自作解題に相応しい、これまたタイムラグがある文章だと思ってください。

 ちなみに、あっち方面の話題についての記述はないので、そうした話はもうお腹いっぱいの方も安心してお読みいただけるだろう。


 「blogってどうよ?」というところから HotWired らしからぬタイトルだったが、その中でも当方の文章については様々な感想をいただいた。そして今回の文章ほど賛否が分かれる文章ははじめてだった。そのほぼすべてを反応リンク集から辿って読むことができるが、具体的に当方の文章に向けられた評価の主なところを上から下までピックアップしてみる(一部、改行位置を変更)。

 さすがきれいにまとめているなあ
 yomoyomoさんの記事がやはりすばらしくまとまっていて
 現在の動きのポイントを簡潔に押さえていて、日本の状況を知らない人にわかりやすいものとなってました。
 バランス良いし、しかも HotWired に載ってるってのがすごいな。
 辛辣ではあるが、blog騒動の本質を正しく伝えている。
 hotwiredへの批判含みで面白かったです。
 ご本人も「出遅れた感がある」みたいなことをどこかで書いてたし,確かにそういう気がしないでもないけど, 事の経緯がよくまとまっていて非常に分かりやすい文章だと思います.
 物足りないというのは、致し方ないところだろう。
 うーん、ちょっと薄いですかね。
 なんかバトルウォッチ(しかも一方視点に偏った)に重点置き過ぎで俺は今回の文章はかなりがっかりだ。
 「日本のblogの過去現在未来」ってお題なら、もっとおもしろいこと書けるよなあ。
 古くからの○○アンテナとかで出来た日記コミュニティの様子とかそれのblogとの類似性とかを重点置いて丁寧に書いて欲しかった。
 ほんとはこの記事の依頼はギトギトの日記野郎に出すべきだったんじゃないかな
 読んだけど周回遅れというか何週も遅れてると思うなー まだそんなところにいたの、っていう。

 最後になるとボロカスだが、最後の5つは山田BBSの「blogについて考える。」からのものである。720で筆者が書いている通り、3月18日におおつねさんがリンクしていたことで知ったこのスレッドは、質の高さが継続した稀有なもので、ずっとチェックさせてもらっていた。特に HotWired から依頼された文章を書く際には、ここを何度も何度も読み返して頭の中を整理するのに使わせてもらった。せっかくのゴールデンウィークに一人部屋に篭って一日中各種原稿に取り組んでいるといい加減気が滅入ってくるもので、本屋でネットランナーの Movable Type 特集をうっかり立ち読みして陰惨な気持ちになったりもした。そうした背景があったためか、このスレに感情移入していたところもあったようで、ここでの酷評を見たときは正直がっくりきた。


 で、評価が出揃った現在はどうかというと、仕方なかったかなーというのが正直なところである。仮に一からあの文章を書き直すチャンスがあったとしても、やはりそれは山田民の期待するものにはならないだろう。HotWired のような商業ニュースサイトにあまり事前知識を必要とする文章を出すわけにはいかないし、「過去の混乱と反発の経緯を踏まえ、日本における blog の現状と展開について技術的に突っ込まずに解説」という4000字の依頼で津田日記アンテナあたりから説き起こすのはさすがに無理がある(実際の原稿も4000字を余裕で超過している)。そもそも文章のはじめで宣言している通り、経緯を知らない人が読んでも大枠が分かるように書いたのだから齟齬が生じたのは仕方なかったのだろう。

 結局のところ読者全員の期待に応えることはできないし、また当方には書き手として力量が足らなかった、という至極まっとうなところに行き着くのだが、一方でああしたメジャーな場に自分の文章を出してみて分かったのは、結局読者は自分が読みたいようにしか読まないのだな、ということ。今回の文章で言えば、全体の四分の一の分量の過去の騒動関係の記述に注目しすぎ。それに「こういうことが書いていない」という評を読んでも、それは別の形でちゃんと文章に入れているのになぁと不満に思うこともあった。

 当然ながら、当方の文章に対するまっとうな批判はいつでも大歓迎である。今回の文章に限らず、穴があれば遠慮なく叩いていただきたい。他の人はどうか知らないが、僕は自分の文章が論破されることを少しも恥だと思っていない。例えば、t e x t i l e c o c o o n における「未来は嫌い?」(リンク先消滅)などその好例である。「あの記事を読んだ人は blog に対してかなりネガティヴな印象を持つような気がする」というのは今読んでも腹が立つが、zzz 氏が指摘する、blog がどういうコミュニケーション/コミュニティの創出に結びつくのかの記述が弱い、つまり「未来」についての記述が足らない、というのはおそらくその通りなのだろう。こういう指摘を一歩も引かずにしてくれる人はありがたい。


 基本的にはタイトルがミスマッチな印象を与えてしまったのだろうが、どうしてコミュニケーション/コミュニティ関係の具体的な展開を書かなかったのか後になって考えてみたところ、僕自身それにどこか疑いというか、戸惑いのようなものを感じているようなのだ。

 blog 関係の話になると、「コミュニケーション」や「コミュニティ」と言った言葉が安易に、それ自体正義として使われているという印象がずっと僕の中にある。もちろん表現行為、そしてそれを通じて誰かとつながりたいというのは多くの人が持つ根源的な欲求なのだろう。僕にだってそれはある。が、何をもって「コミュニケーション」なのか、「コミュニティ」なのかみんなちゃんと分かって言っているのだろうか。山形浩生ではないが、コミュニケーションというのは本質的に不快なものだと思うのだが。

 しかし、もちろん何もガチンコなやり取りのみが貴重なんてことはないわけで(それだと殺伐もいいところだ)、情報のやり取りの敷居を下げ、これまでになかったつながりが可能になることによる価値の創出があるのは間違いない。それの展開についての話が足らないという指摘は正しいのだろう。

 で、「コミュニティ」については Rebecca Blood もその重要性を今回のインタビューにおいても強調しているが、僕のようにどのコミュニティにも属さずにきた(というか、どこからもほとんど評価されなかった)人間からすると前述の戸惑いを感じてしまう。そうするうちに思い出したのが、小林秀雄が「読者」というエッセイの中で紹介していた、サルトルが書くアメリカ文学への驚きについてのくだりである。

作品とは、めいめいの孤独を発表する手段だと慣れて来たが、アメリカに来てみると、事はあべこべらしい。例えば、西部で農場を経営している一人の女性が、孤独に堪えかねて、或は、自分の孤独の独創性を単純に信じ込み、これをニューヨークのラジオ解説者にぶちまけたら、どんなにせいせいするだろうと考える。アメリカの小説家のやり方は、ほぼこれに似ているらしい。つまり、作品とは、孤独から解放されんが為の機会なのである。文学の仕事は、学校とも聖職とも何の関係もない。彼等の求めているものは、名誉ではなくて、寧ろ友愛と言った方がいいのではあるまいか。

 (強引かもしれないが)これに当てはめるなら、僕は「めいめいの孤独を発表する」ために文章を書いている。決して「友愛」側じゃない。僕が感じた戸惑いはこういうところに起因しているのかもしれない。


 だから「blogってどうよ?」の公開後に読冊日記における一連の「ブ日記」関係の文章で、風野さんが書かれていたことにも共感するところはある。やはり、ワタシも日本人なんでしょう。前述の「コミュニティ」あたりはまだいいとしても、向こうのブロガーの話を読んで愕然とすることがあるわけだ。例えば今回の特集だと NYC bloggers の連中の(blog とは直接関係はないが)以下の発言など。

なぜなら、NYは”世界の首都”であり、世界中の人々が自分達のことをニューヨーカーだと思っているからです。それは素晴らしいことです。

 こういう類のことを笑顔を浮かべて言えるのは恥知らずかアメリカ人のどちらかである。舶来の用語を持ってきてそれをそのままの方法論でやられてもどこか無理しているように感じられるときがあるのは、こんなところに原因があるのだろう。しかし、もう現在ではそれは別にアメリカ人だけのものじゃない。

 そうした意味で風野さんの blog の理解がどこか恣意的に感じられて少し不満だし、それに『本人のウェブ日記の「引きこもり性」、「内向き」性、「独り言」性といったものをマイナスととらえるのではなく、積極的に評価したい』とまでは僕は思わない。

 HotWired 原稿の中で、はてなの近藤さんのインタビューを激賞しながらも、「現状の分析が正しいからといって、それがそのままあるべき姿とは言えない」と書いたのは実はそういうことである。

 それに例え風野さん自身が前述のようなつもりで読冊日記を書かれているとしても、僕を含む多くの読者が氏の文章を楽しんでいるのは(まったく、ウェブサイトを立ち上げたときに、自分の名前が読冊日記に載るなんて夢にも思わなかった!)、風野さんの文章の力が大きいのが一番なのは間違いないが、それだけではなく、氏の文章がちゃんと他者を意識した開かれた内容になっているからだ。他の人間が、上の文章を真に受けて引きこもった内向きの独り言のようなウェブ日記を書いても、その大半が(スタージョンの法則以上の割合で)まったく読むに耐えないものになるであろうことは想像に難くない。


 結局のところ、僕が一連の文章で書きたかったのは、早くイビツな抑圧なしに風通しの良い状況になってほしいということだと思う。そのためにできるだけ多様な選択肢、多様な方法論を示すようにしてきた。

 それでは「抑圧」とは何かと言うと、一部の blog ツールばかりがメディアで取り上げられることで顧みられない既存の優れたウェブ日記ツールやその作り手、そして既存の良質な書き手であったり、blogはジャーナリズムだ! 的なかけ声で抑圧される個人ユーザの素朴な表現であったりといろいろあるが、早く実践フェーズというか、情報と条件が揃ったもとで各々がやりたいことを、自分にあった形の上でやるようになってほしいと思う。たかが手段じゃないか。

 そうした意味で今回の HotWired Japan の特集には僕自身救われるものがあった。Rebecca Blood もそうだが、Evan Williamsインタビューを読んでもリベラルで柔軟で現状認識もしっかりしているし、「blog で個人ジャーナリズム革命だ!」などと恥ずかしいことは言ってない。彼らへのインタビュー自体は2002年の9月に行われたものらしいが、それから間を置かずに公開されていれば、現在の日本の状況は違ったものになっていただろう。

 あと余談だが、誰か突っ込まないのかひやひやしていたのだがやはり誰も突っ込まないので書いておくと、どうして2002年9月の取材で Rebecca Blood がイラク戦争のことを語っているのだろう? 問い合わせたところ、追加取材したとのことのようです。


 Evan Williams は技術者らしく Wiki などの他のツールにもちゃんと目配りをしているし、読後感は近藤さんのインタビューを読んだときのそれに近いものがある。僕はこのように実際にブツを作り上げる腕を持ち、しかも自分のやっていること/やりたいことをしっかりと自分の言葉で表現できる人が好きなのだ。この分野で近藤さんの他には、ただただしさんやいしなおさんがそれにあたるだろう。だからこそ近藤さんインタビューは、近藤さん自身がそういう人であるという発見があり、また前述の人達の仕事をちゃんと取り上げているという、二重の意味で感動的だったのだ。

 また逆に言えば、そうした人達がちゃんとメディアに取り上げられないことに強い不満があったのは間違いない。単なる流行便乗でなく本当に個人パブリッシングツール、そしてその周辺のコミュニティに目を付けているのなら、はてなや tDiary に注目するというのは当たり前の話だろうに。その程度の同型性も見ぬけなくて何が編集者だ。

 そうした意味で、CNET は好き嫌いは別として、やはり評価すべきだろう。梅田望夫氏の連載に加え、この間からレッシグの blog の日本語版も始まった。大局的に見れば、RSS 配布を開始したことの方が大きいのだろうが、いずれにしても立派なものじゃないか。

 当方の文章では、それに対比させる形で HotWired Japan について触れたが、これは単に嫌味をかましたかったからではない。例えば最近の HotWired Japan の執筆陣は、稲葉振一郎といい白田秀彰といい野口旭といい、的確な人選だと思う(ただし稲葉さんの連載はボンクラなワタシには長過ぎるし難しい…)。その選択眼が江坂編集長のものであることは氏の blog を見れば分かる。ならばどうしてそれをもっとリンクさせないのか残念に思ったからである。その方が読者からすれば作り手の顔が見えやすくなる効用もある。blog の利用、それは何も CNET のように外から連載を持ってくるというだけではないはずだ。選択肢は多様なはずである。


 僕自身は会社で tDiary + BlogKit + Wiki スタイルという極私的最強モードでウェブログを運用しているが(部内のみ対象なので、TrackBack も RSS 関係も必要ない)、基本的に自分のサイトのスタイルを大きく変える予定は今のところない。それに僕は偏屈で天邪鬼なので、個人サイトが皆 blog ツールへの移行を始めたら、意地でもそれに逆らうだろう。そうでなくても自分のライティングスタイルが blog に合わないということはそれこそ半年前に表明している。

 僕の話でもどうでもよいのだが、例えば高木浩光さんがはてなダイアリー開始とともに書かれた「日記を書くことにする」など個人的にすごくよく分かるものがあった。が、実際の高木さんの「日記」は毎回相当に濃い内容で、これなら毎回独立したコラムとしてウェブサイトに掲載した方がいいのじゃないかとお節介にも思ったりもする。でも多分、今の木さんにはこのスタイルが一番合っているのだろう。また老舗文学サイト「ほら貝」の加藤弘一さんが「ウェブログに見る日米個人サイトコミュニティ事情」に触発されてウェブログ風エディトリアルの更新が頻繁になったとか、そうした動きにこそ注目したいよ、僕は。そのとき blog の定義がどうこうとか、もうどうでもいいよ。

 大体、ウェブログ論みたいなものほど関係ない人にとってどうでもいいものはない、というのは Rebecca Blood も『The Weblog Handbook』の中で "Talking About A Revolution"(はヤメレ)と皮肉っていることである。たまに足場を見直すのに議論になるのは当然としても、そればっかりというのはあまり健全とは思えない。名前の統一が重要なら、もう全部「ウェブロ」にすりゃいいじゃないか、と時々真剣に思うくらいだ。「ブログを使うという事はかっこいい事だ、と思っている」方々は賛成しないだろうけど。

 もうこれだけ話題の開口が広がると、一人の人間で網羅することはできない。僕はできるだけ網羅的な文章を書いてきたつもりだが、もう役割は終えたでしょう。目先を変えて文章を書きついでいくことはできるのだろうが、もういいかげん blog 関係の文章を書くことに付随するものに僕自身心底うんざりしたというのが正直なところである。

 今僕はこの方面の関わりに落とし前をつける仕事に取り組んでいる。それを終えるのが楽しみでならない。


 最後に「日本におけるblogの過去・現在・未来」を書くにあたりお世話になった方々にお礼を述べさせてもらう。

 まず何よりも HotWired Japan の江坂編集長には感謝しなくてはならない。特に HotWired Japan への批判も含む文章を、当該部分についてはまったく変更せずに掲載してくださったことに感謝する。あと特集掲載時には掲載スケジュールが意図通りにならなかったことを心からお詫びしたい。少ない人員でやりくりしていることを知りながら暴れてしまったのは当方の不徳の致すところである。

 そして当方が書く上で参考にした文章を書いた人達、特に 「ウェブログ事始め」を書かれた demi さん、そしてその主要なネタ元でもある『The Weblog Handbook』の著者 Rebecca Blood に感謝したい。あと酷評はされてしまったが「blogについて考える。」に書きこまれた山田民にも感謝する。

 そして直接は文章には反映していないが、ゴールデンウィーク中の質問メールにも親切に回答してくださった先田千映さんに感謝したい。

 そして最後に、これは文章公開後の話になるが、ずっとメールのやりとりをさせてもらった鈴木秀幹さんと加野瀬未友さんに感謝しなければならない。一度書いた文章を破棄したのは、お二人とメールのやり取りをしているうちに書きたいことを大方書いてしまい、気持ちが幾分は晴れたからというのがあったりする。


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初出公開: 2003年06月17日、 最終更新日: 2004年01月27日
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