岩谷宏がロック雑誌 rockin' on の編集者であったことは知っていたが、筆者が rockin' on を購読しはじめる大分前に彼は編集から身を引いていた。七八年前、コンピュータ関係の雑誌で彼の名前を見かけたときは驚いた。当時既に40代であった彼がこうした分野に足を踏み入れているとはついぞ思ってなかったからだ。
それから五年ほどたち、技術評論社の雑誌 Software Design 誌での連載「文科学後進国への挑戦」は僕の中でちょっとしたカルチャーショックだった。何しろそこで展開されるレベルの高い議論といったら。毎月読んでいたわけではなかったが、ついていくのに必死だった。ある程度普遍性を持たせながら高度な内容を有する技術コラムを他にあまり知らなかったので(今だって殆ど知らない)、非常に魅力的であった。
しかしこの「文科学後進国への挑戦」というヘンテコなタイトル、岩谷宏自身でなく編集者の命名だったらしいが、今考えるとこの時点で岩谷宏の思想性をよく把握しておく必要があったようだ。
「インターネットの大錯誤」(ちくま新書)を購入したのは98年の秋口であった。一度氏の著作に目を通しておきたいと思ったからだが、インターネットというメディアの初心者をターゲットとした啓蒙書であり、1章を読みはじめてすぐに退屈を覚え、読み進むのをしばらく放棄していた。端末からネットワークへの接続として、シリアルポートしか紹介しないという(この人の世界にイーサネットは存在しないのだろうか)常識を疑う内容もあり、読む気が失せたし。
99年の正月、久しぶりにこの本を手にとり読み進む内に俄かに興奮を覚えた。ただその興奮は「文科学後進国への挑戦」を読んだときの興奮とは全く別のもので、こんなもので啓蒙されたのでは仕方がない、という怒りであった。中村正三郎が岩谷宏のことを「バカ」と罵倒する理由が分かった気がした。
インターネット=ホームページ、ではありません。(中略)インターネットの面白い使い方を考えることができるのは専門技術者ではなく、生活、勉強、仕事などの現実ニーズを抱えるわれわれだ(表紙より)
この本の主張は、専門技術者によりブラックボックスと化した柔軟性の乏しいコンピュータではインターネットは使いこなせない。これをグローバルな社会的基盤として活用するには、それを現実社会で用いる文化系の人間が主導権を握るべきである、というもので、対比されるように理系技術者は「脳と心の両方が矮小で硬い」と何度も罵倒される。
上に引用した文で、いきなり「ホームページ」という言葉を誤用しているのには笑わせるが、著者は「初心者向け」だからと逃げるだろう。しかし、そうした読者を馬鹿にした(そうした態度は実は著者の脳と心を矮小で硬くする)態度で啓蒙される文科系の人間がかわいそうだ。この本の主張は矮小化と矛盾に満ちている。
第2章「ネットワークコミュニケーションの可能性」において訴えられるID、メールヘッダの充実であるが、岩谷はネットワークを利用する企業、商店、個人がもっと内容のある(不変部分と可変部分のある)「自分の看板」を持てるべきだ、と訴える。「ネットワークディレクトリ」システムなど階層化に基づく心貧しく(略)理系技術者の発想など駄目だ、と主張する。
しかし、当方の Web ページの URI、電子メールアドレスを自分の看板にできたとしてそれに何の意味があるだろうか。当方としてはせいぜいドメイン名を http://www.yamdas.org/ に変える程度だろうな。問題なのはコンテンツであり、看板を内容豪華にして一件落着という考えがまず間違い。岩谷の考えにはそうした意味の実際性が欠落していて、自分の文科系の理想を全てよしとする傾向がある。電子メールに内容指示情報を加える? それはいいかもしれないが、飽くまでそれは既存の「階層化」で十分実現される程度の話だ。
岩谷が侮蔑する脳と心(中略)理系技術者に対比されるように称揚されるのが、ハイパーテキストの発明者である「偉大なる文化(科)人」 Ted Nelson である。その偉大な構想を(略)理系技術者が WWW ごときでハイパーテキストと僭称するのは許せない、というわけだ。つまり現在のインターネットの閉塞を打破するには、Ted Nelson のハイパーテキストの正しい解釈こそが一つの鍵になると主張したいのだろう。
Ted Nelson の現在の活動について、岩谷は(恐らく意図的に)全く触れてない。これだけ読むと彼が歴史上の偉人のような印象すらもってしまうが、岩谷は Ted Nelson の現在の救いがたい沈滞・不遇をどう説明するのだろう。読者を啓蒙したいなら、最低ここら辺の押えも必要だったろうね。
もはや Ted Nelson の言葉をありがたがる人間なんて、一部の物好きな日本人以外にはいなくなっている。彼が立ち上げた Xanadu なんて誰も見向きもしない。その原因は何だろう。ボランティア精神に頼っていては急激な発展は無理、構想が壮大すぎる、Ted Nelson が教祖様で禁欲主義者だから? 冗談ではない。彼の代表作「リテラリーマシン」の第5章など、「ハンバーガーチェーンの店舗開発・経営ガイドブックである。教祖の顔はのぞくものの、ビジネスマンの面目躍如(竹内郁雄)」と評する人もいるくらいだ。
しかし現状はどうだろう。アメリカでは、1995年の段階で、「Xanadu は結局のところ究極の vaporware だった」という評価がなされ(WIRED誌)、決着済みである。岩谷も彼を現実的な文脈で称揚するならこうした評価への新しい切り口が必要だったろう。「どうせこの本の読者は Ted Nelson なんて知らんだろうから」という見切りの上に彼の名前が出されるなら、馬鹿にされたのは文科系の読者の方だ。
Ted Nelson は発明者としては偉大であったし、今後彼の再評価も定期的に行われるのだろう。しかし、岩谷の言う利用者本位の立場からすれば、我々が見るべきなのはそうした御本尊でなしに、ハイパーテキストが WWW という欠点極まりない原始的なやり口であっさり凌駕され、Ted Nelsonがネット上の著作権問題の解決策として提唱する「トランスコピーライト」にしても、GNU の GPL (General Public Lisence) あたりが先をいっている、という現実である。
「インターネットの大錯誤」の話を戻すと、この本で取り上げられるネット上の著作権、安全性への意見は一応まともで安心させられるだが、そこで岩谷の文科系人間としての思想的な脆弱さも明らかになってしまっている。
文化的な表現物や表現物の乗り物(メディア)に対して規制や検閲等をする権力は、やがて滅びる権力です。いわば、自分の側に大義がなく、国民の信用も世界の支持もなく、したがって勝ち目もないことを、世界に向かって100%白状しているのが規制、検閲とかいう行為である。(p124, l7-10)
一見正論のようであるが、読者の愚を見越した(つもりでいる)呑気さは犯罪的だ。大体「やがて滅びない」権力なんてあるのかね。江戸時代の日本なんて規制・検閲だらけだったのに二百年以上続いたんだから。「やがて」をもう少し短いスパンに、話を今世紀に限定しても検閲大国であるアメリカが世界の警察面してのさばるのさ。何なんだよ「大義」「勝ち目」って。「大義のある」国家ってもはやギャグだよ。文科系インテリ君の頭の中で国家や国民というのはそんなに単純に位置づけられていたのか。
現実として「国民の信用も世界の支持」もない規制、検閲が支配する国家が世界中いたるところに存在する。現代政治学はそうした国家に対する理論モデルを提供してはくれんのかな。結論=やがて滅びる、なんですかあ?
結局岩谷自身の思想性の欠陥だろう。社会的という言葉の反意語として技術的、と平気で持ってこれる時点からおかしい。人間と世界を変えてきたのは広い意味での「技術」であることは当たり前の話なのに。
「いったん自分を文系と規定した人間の多くは、その先一生科学や技術と無縁の生活を送れると思い込んでしまう(山形浩生)」文科系人間を岩谷は啓蒙したいのかもしれないが、ユーザプログラミングを平気で推奨しているところにも矛盾がある。「一昔前に、業界人に馬鹿にされた」と書いているが、それからプログラミングの世界において、例えばネットワークにおける WWW 程度の(普及における)ブレイクスルーでもあったのだろうか。人間には個体差がある。適不適が歴然と存在する。プログラミングもそれではっきり分かれる世界だ。彼もそれは分かっているだろうに。
また本書には、Web などに関する基本的な認識の誤りが散見され、そこまで対象を矮小化させないと切り込めないのか、と情けなくなってしまう(元素の周期表を起点として化学を勉強しても行き詰まるでしょ? ってアナタ初期設定が間違ってるんだよ。そういう勉強法する人いるか?)。
思えばかつて僕が「文科学後進国への挑戦」を夢中で読んだのも、そこで展開される技術論が魅力的だったからで、岩谷宏の思想的欠陥(差別的とは書かないでおこう)などそこに介在してなかった(もしくは僕が読み飛ばしていた)。飽くまで彼の「技術」を語る文章に魅力を感じたのだ。
この文章を書くために、久しぶりに Software Design 誌を書店で手に取った。岩谷氏もタイトルを変え執筆していたが、Linux コミュニティにあからさまの擦り寄った文章には何の興奮も覚えなかった。そして先日 hotWIRED の「PC人生相談」(だったっけ。すげえタイトル)での読み捨てならない岩谷の文章を見かけた。
Linuxの背後にあるものはUNIXという(元々から公開的な)文化である。そしてUNIXの背後にあるものは、人類の普遍的な“ふみ(文)の伝統”すなわちディスクールでありエクリチュールである。詳細をここでは述べられないが、UNIXは“技術”ではなくて“文化”であるという言い方にその本質の重要な一端が言い表されている。UNIXは、コンピュータの--論理的に深い--全体を文科系人種のものにするのである。
ウッソー! ここまで来るとトンデモ本の世界ではないか。技術でなく文化? UNIX は技術であり同時に文化なんだ。そして、UNIX 文化を担う技術者とインターネット文化を担う(岩谷が脳と心が矮小と貶す)技術者のアンド領域は極めて大きい(現状イコールとは言えないが、土台としては同義だったといってもいいんじゃないですか)。技術の公開性という伝統は両者に共通する。Linux という格好の素材を見つけてはしゃいでいるだけなのかもしれないが、じゃあ Linux と他の OS との間に「文科系文化」に根差した決定的な断絶が存在するのか。そんな柳の下の幽霊のような話は聞いたことはないし、これからも聞くことはないだろう。
とここまで書いてきて、当方は非常に複雑な気分だ。岩谷宏が馬鹿なのか、僕がかつて馬鹿だったのか、今でも馬鹿なのか。変な書き方だが、誰か反論してもらえないだろうか。僕が見落としている文脈を見つけてもらえないだろうか。僕は自分を脳弱く心貧しい現役のネットワークソフト技術者などとは思わないが、自分のかつての「技術的興奮」を否定したくはないのだ。そうした数々の触媒を経て、現在の技術者としての自分がいるのだから。
[後記]:
今読むとレベルの低い文章であるが、この本に対するちゃんとした批判にはなっているだろう。穏やかに岩谷の真意を解説してくれたメールもいただいたし、よくぞ書いてくれた、という声ももらった。実はこの文章を書いた後、「中村正三郎 vs 岩谷宏架空対談」も書いた。もし読みたい人がいれば書き直して公開しますが。
そういえば Xanadu がオープンソースになる、とかいったニュースを読んだのだが殆ど話題にならなかったな。オープンソース化は魔法の杖ではない。駄目なものは駄目なのだ。