ポッドキャスティングを普通の人達に

著者: Evan Williams

日本語訳: yomoyomo


以下の文章は、Evan Williams による Podcasting for Regular People の日本語訳である。


ポッドキャスティングにワクワクするたくさんの理由がある。

ラジオのプロデューサーがものすごい勢いでポッドキャスティングに参入し、かつては特定の時間に特定の場所にいないと聞くことができなかった大量の優れたコンテンツが、リスナーが好きなときにダウンロードして楽しめるようになったという現実がある。

新しい「インディー」コンテンツの急増により、人々の耳と心を楽しませる、ラジオではまず放送できないコンテンツも入手できるという現実がある。

そしてもちろん、誰もがコンテンツを作り出し、この「次世代ラジオ」でオーディエンスを見い出す可能性があるという意見もある。

以上に書いたことはすべて、かつてその初期時代にウェブをとてもエキサイティングなものにしたのと同じ原理に合致している。つまり、情報へのアクセスと流通の著しい変動である。

この原理を音声に当てはめると、音声というのは歴史的に見て十分なサービスが行き届いていない媒体なので、僕は特に心が躍る。画面と結びつくことなくバラエティ豊かなウェブライクのコンテンツを手に入れる――そして誰もがこれまではインディペンデントな発言と非常に密接だった形態でコンテンツを作成できる――のは強力なアイデアである。確かにポッドキャスティングがこれほど短期間に獲得した巨大な勢いは、これを反映している。

しかし、僕はそれ以上の可能性があると思うんだ。

Odeo で我々は、今日支配的なラジオのパラダイムの先を考え始めている。再度、これとウェブで起こったことを比較してみる。普通の人達にとってウェブパブリッシングが日常生活に適合するほど十分便利になったとき、ウェブパブリッシングの性質そのものが変わった。

ブログが世界規模で影響を持ち、オーディエンスを獲得し、そして場合によっては金にする(他のほとんどのメディアと同じ目標)のが可能になっている一方で、そうした動機がなくても毎日幸せにパブリッシングを行なう何百万もの人達がいる。彼らにとって、表現、内省、そしてコミュニケーションのほうがより重要なのだ。

僕はこうした人達を「気楽なコンテンツクリエイター」と呼んでいる。彼らがアマチュアであったり、一般大衆のロングテールに属するということだけを言っているのではない。彼らがルールが異なるゲームをやっているということを言いたいのだ。

パブリッシングに対するどちらのアプローチも正当なものだ――それに両者の間には重なる領域があるのは確かだ――が、後者は僕に言わせれば過小評価されている。我々が Blogger で学んだように、それこそが大部分の人達がやりたいことなのだ。そしてもし ウェブにパブリッシュを行なうことで、彼らは「個人パブリッシャー」になり、大物リストに載るよう努力すべき(大抵の人達を脅えさせる考えだ)と期待されるなら、自己表現をして情報を共有するための気楽な手段を与えるのとはかなり違った結果になるだろう。

さて、これをポッドキャスティングに当てはめるとどうだろう?

つまり、個人パブリッシャーになることが多くの人達にとってプレッシャーを感じることならば、ラジオスターになることなどまったく考えもつかないレベルの話である。僕は、次代のハワード・スターンやアイラ・グラスにあえてなりたいと思う人達を低く見ようとは思わない。そういう人は世の中に少なからずいるし、そういう人達がいることはよいことだと思う。僕だって彼らの新しく、革新的なラジオ的なコンテンツをたくさん聞くことになるだろうし。でも個人的には、特にこの領域に関して言えば、僕は気楽なコンテンツクリエータのほうにもっと肩入れしたいんだ。この間の夜、僕は町を離れているガールフレンドに二分間のポッドキャストを送り、七秒間の「ポッドキャスト」のお返しをもらった。それが僕を微笑ませてくれるというだけで、今もそれを iPod に残している。この間はタイプするよりも話すほうがずっと簡単なことがあったのでチームに「音声メモ」を送ったし、チームの皆はちゃんと聞いてくれたと思う。

音声の領域における気楽なコンテンツ作成という考えは強力なものだ。そして、それは(潜在的な)ポッドキャスティング界で、まだ正当に認知されてないものだと僕は思うんだ。


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初出公開: 2005年10月31日、 最終更新日: 2005年12月02日
著者: Evan Williams
日本語訳: yomoyomo (E-mail: ymgrtq at yamdas dot org)