ニコライ・ベズロコフ氏への返答

著者: Eric S. Raymond

日本語訳: yomoyomo


以下の文章は、Eric S. Raymond による Response to Nikolai Bezroukov の日本語訳である。

なお本文最後にポーの引用があるが、これの原典をご存知の方はメールでご一報願えませんでしょうか。

本翻訳文書については、金井聡さんに誤訳の訂正を頂きました。ありがとうございました。


(1999年10月号の First Monday 誌に掲載された記事への返答としてこれを書いた)

過去18ヶ月間にわたり、数ダースもの人達が、「伽藍とバザール」(以下、伽藍)やその続編である「ノウアスフィアの開墾」(以下、開墾)、「魔法のおなべ」(以下、魔法)について思慮に富んだ批評文を書いてくれた。私はそうした批評を歓迎しているし、多くの場合(以上の論文につけられた更新履歴を見れば分かる通り)私は最新版にそれを組み入れてきた。

First Monday 誌に掲載されたニコライ・ベズロコフの文章は、残念なことに、その議論にほとんど有益に寄与するところがない。かわりにベズロコフ氏は、私の論文の実際の中身とは殆ど類似性がなく、彼が攻撃している著述について本当に調べてくれたのかどうか問いただしたくなるような、「俗悪なレイモンド主義」と彼が呼ぶ、仮想の看板をおっ立ててくれた。もし、「俗悪なレイモンド主義」なるものが存在するならば、私はそれに対するもっとも厳しい批評家であるだろう。

私はこの論文を好きになりたかったし、そこから何かしら学びたかった。しかし、第三段落の中の、「彼は、ソフトウェア開発を説明する際に、社会主義者(もっと正確に書くなら、俗悪なマルクス主義者)の変種でも気取り、オープンソースについて過度に楽天主義で単純化しすぎた見地を促進した」というくだりにずっこけて、こいつにそんなものがありそうもないことが分かり出した。

私が告発されうるのももっともな、多くの罪状が挙げられているが、「俗悪なマルクス主義者」の謗りは、私の論文をざっと読んだだけでも解消されるのではないか。「伽藍」において、私はオープンソース開発を、アダム・スミス言うところの自由市場と類似させていて、それを説明するのに、古典(資本主義)経済学の専門用語を用いている。「開墾」においては、所有権についての生物学的土壌について議論を進め、アイン・ランドを愛他主義の破壊者として賛意を表し、引き合いに出している。それから、「魔法」の中身全体が、オープンソース開発と情報化時代におけるポストインダストリアル資本主義が自然に結びつくという主題を展開している。

実のところ、私はマルクス主義という呼び名を、真実でないばかりか、個人攻撃の色が濃い非難だと思うのだ。私は論文の中で、私の政見を無配慮に扇動しないようにすることを忘れてはいないが、私がリバータリアンで、自由市場の支持者で、そして(私はナチズムと同じくらい邪悪なものだと考えている)あらゆるマルクス主義や社会主義の形態に対する容赦ない敵意を持っていることは、オープンソースの世界においては秘密でも何でもない。

ベズロコフ氏はそれから、オープンソース開発と科学的な共同体の実践との間の類似性について、あたかも私がそれについて不届きにも見落としているかのように指摘している。見たところ、彼は「開墾」中の二つの段落が、この関連性の探究とその社会心理学的な根拠を提唱することに主として捧げられているという事実をどういうわけか見落としたらしい。

私の分析におけるむかつくような異常な歪曲は続く。以下にベズロコフ氏による、私の著述についての、明らかな誤読を幾つか挙げておく。

オープンソースは歴史上類を見ない、全く新しい革新的な現象(人類の明るい未来)である。

どういうわけかベズロコフ氏は見落としている、もしくは無視しているのは、Linux のバザール開発モデルが、ジェラルド・ワインバーグが書くところの「エゴのないプログラミング」や MIT AI 研や UC バークレーを含む初期のオープンソース・コミュニティに溯って明白に関連していることを、「伽藍」で触れていることだ。彼はまた、オープンソース開発が実験科学・工学の歴史との関連について「開墾」で触れた部分や、オープンソース界における現在の開発と、芸術分野における貴族によるパトロン制という産業化以前のシステムとの類似性について提唱した「魔法」の中の段落を扱っていない。

全てのオープンソースプロジェクトは同じであり、いわゆる「バザールモデル」を使用している。

「伽藍」自体において、私はフリーソフトウェア財団(FSF)を、フリーソフトウェア/オープンソースプロジェクトにバザールモデルを適用していないと批判している。

マイクロソフトは滅ぼされるべきだ。

「伽藍」でも僕の論文のいずれにおいても、言外の意味としてさえも、このような主張はしていない。私は論文を grep して、チェックするために再読してしまったよ。

マイクロソフトのビジネス慣習のいくつかが大嫌いであることを秘密にしたことはない一方で、私は公然と (a) 自由市場主義の立場から、司法省による訴訟への協力を拒否したし、(b) オープンソースの開発者に、我々は何かに敵対するためでなく、ソフトウェアの品質を高めるために必要とされていることを、繰り返し熱心に勧告し、(c) マイクロソフトで、ほぼ好意的といえる聴衆を相手に講演したんだ!

オープンソース運動は理想的に協力的な人々から成る。

ベズロコフ氏が、私の著述についてのこうした解釈と、「開墾」における紛争解決に関する文章の全てを結び付けるやり口は、私には理解し難い。彼が想定するその「理想的に協力的な人々」がいるのなら、紛争解決のメカニズムなんて必要としないだろう。だって彼らは争いなんてしないもの。

以上の大間違いは全て彼の論文の最初の 10% までに出てきている。残りの 90% の殆どは、ベズロコフ氏が「俗悪なレイモンド主義についての批評」として広告しているにもかかわらず、私の著述について全く取り組んでもいないし、論駁もしていない。ベズロコフ氏が、他のやり方では殆ど取り柄のない著述に注意をひきつけるために、論文の初めの方に私に対する不自然な論争をくっつけたという疑いは避け難い。このイカサマに明らかに騙された First Monday 誌の事前審査員のクレジットもない。

私は、過去に多くの批評文に対してそうしてきたように、この論文から何か価値を見出そうと一生懸命努力した。しかし、偏向しておらず、ナンセンスでない部分は、他の人達(Jamie Zawinski、Alan Cox、Andrew Leonard、そして私自身を含む)がより優れた、しかもずっと早くにくれた意見をおおっぴらに繰り返すものに過ぎない。私としては、エドガー・アラン・ポーの引用をベズロコフ氏にどうしても捧げたい。「君の仕事は正しくもあり、独創的でもある。不幸にも、正しい部分は独創的ではなく、独創的な部分は正しくないのだが」


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初出公開: 1999年10月10日、 最終更新日: 2002年11月12日
著者: Eric S. Raymond
日本語訳: yomoyomo (E-mail: ymgrtq at yamdas dot org)
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