Facebookの報い

著者: Anil Dash

日本語訳: yomoyomo


以下の文章は、Anil Dash による The Facebook Reckoning の日本語訳である。


今週号の New Yorker に Jose Antonio Vargas による、マーク・ザッカーバーグ(Mark Zuckerberg)と彼が代表する Facebook について長文の素晴らしい紹介が載っている。その中で、私がマークについて言った言葉「何不自由なく育ち、ずっと豊かで恵まれ、ずっと成功してきた26歳の若者であれば、人に隠さなければならないような秘密があるとは思わないのも無理はない」が引用されている。これは正確な引用だが、単に Facebook の CEO の特権についての論評というより Facebook についての私の感情にはずっと深いニュアンスがある。

まずはじめに必要なお断りを書いておく。私は Facebook を好きで使っている。私にはあの会社のあらゆる階層で働く多くの友人がいるし、親友も何人かいる。マーク・ザッカーバーグには数回会ったことがあり、我々は友人というわけではないが、やりとりは友好的以外の何物でもなかった。私のビジネスパートナーである Michael Wolf は、MTV Networks 在籍当時 Facebook を買収しようとしたことで有名であり、マークのことを高く買っている。Gourmet Live から ThinkUp まで、私の息のかかった技術プロジェクトは、Facebook をその核となる機能に深く組み込んでいる。つまり、私は反射的なアンチ Facebook の反動主義者ではない。

本当のところ、私はウェブの文化を深く気にかけており、Facebook が行う決定の多くが、特に Facebook がその選択の結果を十分に理解し合うことなくユーザに極端な価値観をうっかり押し付け、その文化に害をもたらすのを懸念している。

特にプライバシーに関する Facebook のスタンスに関してこうした問題を提起するのは私が最初ではない。数ヶ月前の Time 誌の表紙は Facebook のプライバシー問題だった。マークはこの懸念に対して非常に長いがいくらか曖昧な文章を書いて応え、これらの問題の取り組みの深刻さを認識していることを示唆した。当時、Diaspora* という向こう気が強い新興の試みが、Facebook が一連の問題を解決できないのに苛立ち、広域的なソーシャルネットワーキングにおける Facebook の支配に対する意義深い挑戦のスポンサーになることを願う人たちの心をとらえ、数千人もの資金提供者から20万ドル近くを調達した。そしてもちろん、Facebook の起業初期の話を基にした大作映画『The Social Network』も公開まで二週間しかない。

でも実際のところ、私はプライバシーをそれほど重視する人間ではない。

ブログを始めたとき、私は現在のマークよりも若かったし、彼がこれまでしてきたより、人生のあらゆる面についての情報をずっと多く公に共有してきた。私がアイデンティティー管理によるプライバシーについて書いて8年が経つが、その要点は当時同様現在も今日的な話だと思う。

今や我々は、ある意味、皆セレブリティなのだ。我々が話し、行うことはすべて公開を前提としている。そしてその公開を前提とするすべてのことが後世に記録され、これまでのどんな資料写真や PR 用の略歴よりもずっと適切にインデックスされる。かつては、悪名や名声をもたらすキャリアパスを選択する人だけが、自らを検閲しなければならなかったり、提示するイメージを意識してコントロールすることを強いられる事態に直面したものである。

私が特に気になるのは、この会社が、五億人もの人たちとの契約もなく、多くの場合、事実上同意もなしに彼らに課す実に過激な社会的変化を推奨していることだ。Facebook のユーザ名機能のキャンペーンのときに見たように、テクノロジー業界はアイデンティティーが抱える複雑な問題について語る用意がまったく整ってないし、コミュニティや選択肢ではなく企業や機能について語ることを強く好む。

はっきりさせておくと、Facebook は情報共有の過激派に属する人たちによって運営されている。私が政治や自分のアイデンティティーや病歴や個人的な人間関係について話すことを選択するとしても、それはまず何より、社会的地位、富、そしてアメリカ合衆国に生まれたという任意の事実のおかげでそれを行う特権が自分にあるからこそできることなのだ。また私のアイデンティティーは、深刻な反動に直面するだけの攻撃的であったり悪趣味とみなされるものではない。

しかし、もし私が自分が好きなようにできる立場になければどうだろう? 私の家族が私のアイデンティティーの一部を受け入れられないならどうだろう? Facebook が私に理解を強いる情報の公開共有についてのすべての選択肢の設定方法が分かるくらい技術に詳しくなければどうだろう? Facebook のような青色でなく紫色で自分のアイデンティティーを公的に表現することが重要だったらどうだろう? そうすることで社会的ないし個人的に深刻な結果に直面しなければ、どの選択肢もアイデンティティーのあらゆる面も共有可能だと言うのは簡単である。でも我々の大半はそれほど恵まれてはいないのだ。

私は、今日の記事は同じくその点を遠まわしに語っているように思う。

色はザッカーバーグにとってあまり重要ではない。数年前、彼はオンラインテストを行い、赤緑色覚障害であることが判明した。青は Facebook のトレードマークの色だが、それは彼が言うように、「青は僕にとって最も貴重な色なんだ――青ならどれでも分かる」からなのだ。

結局のところ、我々が現在 Facebook 上で表現できるやり方はすべて、マーク・ザッカーバーグが見れるものの限界によって文字通り制約される。私は、似た形で制約される環境にいたことがある。私は友人を訪ねてはじめてニューヨークのハーバード・クラブに入った。大学教育を受けていないという事実が私のアイデンティティーを判断する実際的な意味のある方法とみなす環境に暗に判別されるのをとても激しく感じた。だから私は Facebook を利用するけど、Facebook がアイビーリーグのメンバー向けのプライベートクラブと考えられていたということも忘れはしないのだ。

おそらくは公開共有に関する過激なスタンスについて正直にユーザともっと向き合い、そのスタンスから生じうる社会的コストをはっきり伝えることで、Facebook はその努力に見合う真に包括的な存在になれるだろう。


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初出公開: 2010年10月04日、 最終更新日: 2010年10月04日
著者: Anil Dash
日本語訳: yomoyomo (E-mail: ymgrtq at yamdas dot org)

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