著者: danah boyd
日本語訳: yomoyomo
以下の文章は、danah boyd による The Term "Social Network(ing) Sites" の日本語訳である。
私が Friendster の調査を始めた当初、これらのサイトの名称について社会学者の間で多くの議論があった。はじめプレスは、これらのサイトを説明するのに「ソーシャル・ネットワーク(社会的ネットワーク、social networks)」という用語を使っていた。これに憤慨した社会学者は、ああしたサイトは実際には社会的ネットワークではないと延々と文句をつけることとなった。MySpace の人気が爆発すると、メディアは今度は「ソーシャル・ネットワーキング・サイト(social networking sites)」という新しい用語を使うようになった。言うまでもないが、これが前のより社会学者のお眼鏡にかなうということはなかったし、私などソーシャル・ネットワークのカンファレンスでこの用語を使ったために批判を受けたくらいだ。メーリングリストでも、不満は渦巻いていた。私は普段はどんなものであれメインストリームで利用される言葉をまっさきに擁護する人間であるが、社会学者の批判には同意せざるをえない。
「ソーシャル・ネットワーク」とは、社会に属する個人間の結びつきのネットワークである。どんな種類の社会科学者も、人間(や企業、国家、動物など)の社会的ネットワークを研究している。「ソーシャル・ネットワーキング」というのは、大方の社会科学者を困惑させる用語である。それは動詞としては、ある人が社会的ネットワークを構築しようとする活動行為を意味する。驚くことではないが、どのビジネススクールも、多様な関係構造が職場で役に立つという一部の仮説を基に、生徒に社会的ネットワーク活動をわざわざ教えている。この手の能動的なおしゃべりには何ら誠実なところがないので、私には鳥肌ものなのだけど。
「ソーシャル・ネットワーキング・サイト」という用語を使うことで、メディアはこれらのサイトに参加する大半の人達に害を与えている。この用語は、特にこれらのサイトに参加していない人にとって、利用者はこれらのサイトを駆け回って見知らぬ人(……略奪者だったりする)と出会っていることを示唆している。キャーッ! 我々は、十代の子達が知らない人と出会っているとは思いたくない(モラルパニックになること請け合い)。このように動詞として見ると問題ありな印象があるし、利用者がこれらのサイト上で実際に行うことを見誤ってしまう。大抵の人は友達とつるんでいるわけだから。彼らがそこに行くのは自分たちの社会的ネットワークを作るためであって、社会的ネットワーク活動にいそしむためではないのだ(LinkedIn や他の出会い専門サイトは別)。
親、当局、そしてメディアは「ソーシャル・ネットワーキング・サイト」という用語を使っているけれども、私はティーンエイジャーからその言葉を聞かない。彼らはそうしたサイトを一まとめで語らない――彼らは MySpace や Facebook それぞれについて分けて語る。例外は、モラルパニックや親の心配に言及するときだ。例えば、「うちの親はソーシャル・ネットワーキング・サイトが安全じゃないって思ってんの」というように。彼らが自分たちがしていることやその場について話す場合、彼らはブランド名を使う。ティーンエイジャーが親の話を引き合いに出す場合を除き、彼らはその用語を使わないことを踏まえ、私は実際に何が起こっているかを適切に伝えるために「ソーシャル・ネットワーキング・サイト」という用語にこだわるつもりである。他の人にもそれを勧めたい。
通常の会話におけるこの用語の使い方を組み立てし直すには遅すぎることは私も承知しているが、この問題に光をあてる必要があるとも思うのだ。我々が使う言葉が無意識のうちに自分たちの恐れから生じ、それを増幅していることを我々は特に忘れがちである。我々が使う言葉には政治がついてまわるのだ。