著者: Dariusz Jemielniak
日本語訳: yomoyomo
以下の文章は、Dariusz Jemielniak による Wikipedia as a Role-Playing Game, or Why Some Academics Do Not Like Wikipedia の日本語訳である。
原文は、Joseph Reagle、Jackie Koerner 編 Wikipedia @ 20 の第10章になる。
本翻訳文書については、Shiro Kawai さんに誤訳の指摘を頂きました。ありがとうございました。
ウィキペディアと大学人の時にぎこちない関係を理解するもっとも良いやり方は、それをゲームと考えることだ。
ウィキペディアの編集を始める道筋はたくさんあって、そのすべての道で恥をかくとは限らないのだけれども、私が辿ったコースはそういうものだった。私は月におよそ20万人ものポーランド人に利用されている人気の無料オンライン辞書を運営していた。ポーランド語版のウィキペディアに、その辞書についての記事があった――それに私も貢献したかもしれないが、少しだけである。その記事が削除候補になっているのに気づいて、私は戸惑った。ウィキペディアは誰でも編集可能なコミュニティ主導の百科事典で、その保存領域が今にも尽きそうなんてことはなかった、よね? だよね?
私は記事削除についての議論のページをチェックすると、その記事の価値について論争している人たちを自分なら説得できると確信して、はやる思いで議論に加わった。私には議論は許されているが、これまで記事を編集した記録がないため、投票できないのにすぐに気づいた。そこで私は、自分が作ったページを守るべく編集を始めることにし、大変な努力をして百回もの編集回数というとてつもなく高い基準(に当時は思えた)に到達して、削除の議論に参加できるようになった。
私は自分が記事を守ろうとしているウェブサイトを作った人間だという事実を隠していなかったが、あらゆる議論はその価値次第と言いながら、私には利益相反(「COI」ともいい、5章で議論される)があるとウィキペディアンが礼儀正しく主張してきて、私には訳が分からなかった。彼らの矛盾も著しかった。ある無料の辞書のウェブサイトについての記事を削除すべきという申し立ては、他の同種のプロジェクトはウィキペディアに記事があることを考えると議論の余地があるので、私は早速、意気揚々とそれを指摘した。しかし、それは同種のプロジェクトの記事も削除候補になるという予想外の効果があっただけだった。訴えてはみたものの、私は記事を削除から守れなかった。かくして私の大事なウェブサイトについてよく書けた百科事典の記事は、忘却のふちに沈んでしまったのだ!
これには失望させられたが、敵側の主張もいくらか筋が通っていると私は感じた。他のオンライン辞書も対象範囲から外れたのだから、少なくとも公平とは言えた。さらに重要なのは、もっぱら自然発生的で無秩序な対話と私が思っていたものが、実際には多くのルールや規範からなるコミュニティなのに気づいたことである。
自分がはじめ恥知らずな自己宣伝者に見えていたに違いないのに気づくのに少し時間がかかった。それでも私は好奇心から、またそれが楽しくてウィキペディアの編集を続けた。一年もしないうちに、私はポーランド語版のウィキペディアの管理者に選出された。さらにその一年後には――ビューロクラットになっていた。その少し後には、全体のスチュワード、オンブズマン、資金配分委員会のメンバーになり、しまいにはウィキメディア財団の理事になった。その過程のどこかで、私はウィキペディアにかなりの時間を費やしており、それが学業に影響を及ぼしていることを自覚した。私はその活動を減らすのではなく、それを自分の研究のメインテーマにすべきだと考えた。
本エッセイで、私は大学人がウィキペディアとの関わりに消極的な理由を示し、ウィキペディアの編集がロールプレイングゲームである理由を説明する。私の話を聞いていただきたい。
私がプロジェクトを始めようとしていた頃、ウィキペディアについて分かる、しっかりした学術書は皆無だった。後に優れて的を射ていると心から確信する本がかなりの数出版されたが1、当時はまだウィキペディアが組織の質的研究を行っている社会学の研究者の関心を集め始めたところだった。
私はちょうど准教授の職を申請し、終身在職権の審査を受けている最中だったので、自分が将来の正教授職にふさわしいのを証明できるよう、次にどんなテーマを扱うべきか戦略を練らなければならなかった。私が相談した多くの教職員は、ウィキペディアにフォーカスしても行き詰まると考えていた。そのテーマは十分取り上げられてこなかったが、年輩の教授がオンラインコミュニティはもっぱら真面目な研究テーマではなく、ことによると一時的な流行と捉えているからだと彼らは指摘した。何より、私がウィキペディアをますます率直かつ声高に支持するようになるにつれ、私は厳しい批判と敵意にも直面した。カンファレンスのプレゼンテーションで何度となく冷笑や嘲笑されたし、ウィキペディアをまともに扱うべきでないと認めるようたびたび求められた。
私が学んだことの一つは、ウィキペディアがアカデミア、少なくとも社会科学の分野で、とてもとても悪いものだと認識されていたことだ。学者の間でウィキペディアの認識は時間とともに変わっていったし2、ウィキペディアは教育の現場でますます歓迎されるようになっているが、この二つの世界の間にある大きな隔たりは今なおとても明白であり、少しは反省が必要かもしれない3。
今ではアカデミアの誰もがウィキペディアを利用している。さて、ここで私が言う「誰もが」とは、コンピュータを持ち、インターネットアクセスがあり、人の知識の中に答えがあるかもしれない専門外の分野の疑問が時に頭に浮かぶすべての人を指す。あれこれ多少の偏りはあるにせよ5、ウィキペディアの正確性は「専門家の手による」百科事典と同等であると数多くの研究で示されている4。また、基本原則の一つとして意識的に引き合いに出されるのは、読者が自分で検証できる正当な情報源からの情報だけを追加するのがよしとされる――ことだが、このルールは普段強制されない。
私はそのときある疑問を自分に問いかけたが、その疑問、なぜすべての大学人が積極的にウィキペディアに貢献し、普段の授業でウィキペディアを活用するわけではないのか? は、その後ずっと私を悩ませてきた。なんだかんだ言って、ウィキペディアの記事の執筆は、学生の宿題に最適である。普通小論文を書いても、採点が済んだらそれはすぐにシュレッダーにかけられ、実質誰も二度と読み返すことはない。一方でウィキペディアの記事は、はじめはかなり貧弱な内容でも、徐々にそれを改善し、記事の成長を助ける多くの読者たちの役に立つ可能性が高い。それはウィキペディアが主な知識源である恵まれない人々を支援するだけでなく、社会にお返しをする機会にもなる。
また、百科事典の記事を執筆するのは、学究的な取り組みの典型と言ってよい。それには根拠がしっかりした、信頼できる学術的な参考文献を集める必要があるし、それら文献を合成して的確に参照する能力、そして中立的な表現で書く能力も必要になる。その成果は一般の人たちの役に立つし、書いたものが広く読まれることを学生が知れば、それは多くの人たちの水準を引き上げ、モチベーションを顕著に高める。
恩恵は他にもある。ウィキペディアの投稿は、ボランティアによって盗用がないか頻繁に検証される。ウィキペディアの編集者は、絶えず参照文献の抜けを指摘し、貧弱な表現を修正するし、ウィキエンジンは貢献の詳細な追跡を可能にする。そういうわけで、学生の課題にするのはゼロから記事執筆だけでなく、既存の項目の改善や拡張もありだ。
以上を鑑みれば、一体どうしてこの世界の教授たちは、大学の学習課程にウィキペディアの課題を取り入れることに(9章でロバート・カミングスも議論するように)かくも消極的なのか、私はずっと不思議だった。ウィキペディアンや教員仲間たちと十年以上時間をともにし、私はいくつか手がかりをつかんだと思う。
まず第一に、ウィキペディアの編集は難しそうに見える。従わなければならない編集やフォーマットの規則がたくさんあるので、カリキュラムにウィキペディアの執筆を取り入れるなら、簡単な質問に答えられるか、少なくとも十分自信をもって答えられないとしても、教授もそれらを同様に修得しなければならない。
第二に、ウィキペディアは不正確だと思われている。公開されているほとんどの研究で、ウィキペディアの平均的な信頼性が高いこと、正規のメディアに標準的で中立的な情報源と認識されていること、さらには医学生の大部分が有用だと認め、学習利用に良い結果を挙げていること問題ではないのだ6。その認識は、出版されている紙の百科事典よりもウィキペディアに明らかに多いとされる、間違いやでっち上げによって大方形作られている7。紙の百科事典が日々時代遅れになりつつあり、そうでなくてもでっち上げはウィキペディアのコミュニティによって定期的に除去され、人気の記事に長く留まることはないという事実は、アカデミアにおけるこの認識にあまり影響を与えない。
第三に、科学に対する信頼の重大な危機に連動した社会の変化が広がりが、アカデミアの防御的ではねつけるような反応につながっている。この現象の様々な側面が、例えば、気候変動否定、反ワクチン、ホメオパス、さらに一層風変わりな地球平面説や一般化された反知性主義といった「オルタナ科学」コミュニティを通じて顕在化している。このような変化が起きているのには、フェイクニュースやネットワークプロパガンダの蔓延などいろいろ複雑な理由があるのは確かだが、その明らかな副作用の一つに、一般市民にとっての科学の権威が急速に失墜していることがある。グーグル先生が大多数の患者が選択する開業医であり、最初の情報源になっている8。専門家以外の人たちの間で正式な学術的権威に対する尊敬の念が薄れてきており、市民科学――事実に基づく正当な科学的発見はもちろんのこと、アマチュアによるデータ収集や解釈の世界的な動き――の台頭が目立つ。ウィキペディアは学術的知識の民主化を目指しており、このトレンドにぴったり適合している。ウィキペディアが科学を尊重し、研究結果の学術的な報告のルールに厳密に従っているからといって、ウィキペディアンが従来からの知の流通経路を避けていると見られる事実を変えることはない。それゆえに多くの学者は、科学に対する高まる不信感とそれがもたらす悲惨な結果を、ウィキペディアで特に顕著なアンチ学歴偏重主義に何かしら関連づけて見ているのかもしれない。
最後に、ウィキペディアの運営が奇妙で、いい加減で、非階層的なことがある9。伝統的にほぼ間違いなくもっとも組織立った専門職の一つである教授たちにとって、それは悪夢に見えるに違いない。
しかし、そこには実にリアルな(しかもただの誤解ではない)権力闘争も明らかに存在する。実はウィキペディアは、以前ならアカデミックなヒエラルキーの上位者だけに許されたニッチを占めている。それでも、ウィキペディアがかくも幅広い人気があり、知識の普及に効果的ならば、学者たちもこれに熱心に取り組むべきではないだろうか? 私はその明白な矛盾を理解しようと努める中で、はっきり言えば、ウィキメディアをゲームと考えるのが、それを理解するのに有用なメタファーであるのに気づいた。
ウィキペディアはロールプレイングゲーム(RPG)である。幅広い人気がある多人数参加型オンラインロールプレイングゲーム(MMORPG)なのだ。ウィキペディアは、善意にもとづく共同作業と、向社会的行動と、避けることのできない政治的な闘争、緊張、社会的な偏見の間で引き裂かれた知識構築型の社会運動10を作り上げる、大規模な協調的行動の研究実験なのである(11章で明らかにされる)11。ウィキペディア RPG の参加者は、百科事典執筆者の役割を演じる。年齢や職業に関わらず、参加者は役になりきることにかけては大真面目だ。エゴを脇に置き、礼儀正しくふるまうなど、彼らはたくさんのルールを作り上げた。ウィキペディアでの行動に関するポリシーやガイドラインの数は、大方の「専門家」団体よりもずっと多い――適切なふるまいについてだけで、私が最後にチェックしたときは4万5千ワードもあったし、ウィキペディア編集に関するそれ以外の側面について千を超える規制の文書があり、ワードカウントをすれば全体で何百万ワードに達する。ギークのフォークロアが間違いなくウィキペディア文化によく根付いているのは偶然ではない。
ウィキペディアを RPG として見れば、いくつもの謎が即座に解ける。例えば、現実世界の経歴をひけらかすとウィキペディアでひんしゅくを買う理由を説明するのに役立つ。結局のところ、剣を使った闘いがどんなものか知っていると言い張れば「ダンジョンズ&ドラゴンズ」のキャラクターが有利になるのでは、あまり公平とは言えない。またその見方は、多くのウィキペディアンが高学歴であったり、博士課程に在籍していたりするが、現実にアカデミアで雇用されている人はそれほど多くない理由の説明にもなる。科学者役を演じるのは、それを生活のためにやっていないときこそずっと楽しいということだ。
ウィキペディアを RPG としてとらえれば、象牙の塔の住人が参加したがらないのも説明がつく。あなたが兵士だとしても、必ずしも自由時間まで友達とサバゲ―をして遊ぶわけではない。結果的に、ウィキペディアの編集は自称学者な人たちの遊びだとみなされる。確かにウィキペディアはどの大学の教科書よりもずっと広く読まされているし、どんな教授が夢見るよりもずっと多くのオーディエンスがいるが、ウィキペディアに参加したら、その人はもう真の大学人ではないとされるのかもしれない。
世界中のあらゆる形態のアカデミアも、独自の台本がある高度に儀式化された劇場なのだから、ウィキペディアに知識の普及の面で具体的な目に見える成果があるという事実を持ち出しても筋違いだ。ウィキペディアの記事を終身在職権の審査に利用できる重要な寄稿として認めるのは、「ダンジョンズ&ドラゴンズ」の戦いに「スターウォーズ」のXウイングを持ち出すようなものである――それができればかなり効果的だけど、それはいささか場違いだ。
ウィキペディアを RPG と見ることはできるが、その成果はこの上なく本物である。その結果、知の力の分配において、大学人の特権階級を脅かす、実に明白な変化も観測できるが、それが反ウィキペディア感情を増すのは間違いなく、驚くことではない。世界でもっとも人気があり、信頼できる知識源を作り、既存の知識階層や権威を混乱させる、すべては大規模な反アカデミック攻撃が行われる中での真剣勝負――嫌いにならないわけがないよね?
1. Andrew Lih, The Wikipedia Revolution: How a Bunch of Nobodies Created the World’s Greatest Encyclopedia (New York: Hyperion, 2009)/アンドリュー・リー『ウィキペディア・レボリューション―世界最大の百科事典はいかにして生まれたか』(千葉敏生訳、早川書房、2009年); Joseph M. Reagle, Good Faith Collaboration: The Culture of Wikipedia (Cambridge, MA: MIT Press, 2010); Nathaniel Tkacz, Wikipedia and the Politics of Openness (Chicago: University of Chicago Press, 2015).
2. Eduard Aibar, Josep Lladós-Masllorens, Antoni Meseguer-Artola, Julià Minguillón, and Maura Lerga, “Wikipedia at University: What Faculty Think and Do About It.” The Electronic Library 33, no. 4 (2015): 668–683; Aline Soules, “Faculty Perception of Wikipedia in the California State University System.” New Library World 116, no. 3/4 (2015): 213–226.
3. Piotr Konieczny, “Teaching with Wikipedia in a 21st-Century Classroom: Perceptions of Wikipedia and Its Educational Benefits,” Journal of the Association for Information Science and Technology 67, no. 7 (2016): 1523–1534; Dariusz Jemielniak and Eduard Aibar, “Bridging the Gap Between Wikipedia and Academia,” Journal of the Association for Information Science and Technology 67, no. 7 (2016): 1773–1776.
4. Richard James, “WikiProject Medicine: Creating Credibility in Consumer Health,” Journal of Hospital Librarianship 16, no. 4 (2016): 344–351.
5. Shane Greenstein and Feng Zhu, “Do Experts or Crowd-Based Models Produce More Bias? Evidence from Encyclopedia Britannica and Wikipedia,” MIS Quarterly 42, no. 3 (2018): 945–959.
6. Marcus Messner and Jeff South, “Legitimizing Wikipedia,” Journalism Practice 5, no. 2 (2011): 145–160; Amin Azzam, David Bresler, Armando Leon, Lauren Maggio, Evans Whitaker, James Heilman, Jake Orlowitz, Valerie Swisher, Lane Rasberry, Kingsley Otoide, Fred Trotter, Will Ross, and Jack D. McCue, “Why Medical Schools Should Embrace Wikipedia: Final-Year Medical Student Contributions to Wikipedia Articles for Academic Credit at One School,” Academic Medicine: Journal of the Association of American Medical Colleges 92, no. 2 (2017): 194–200.
7. Giovanni Luca Ciampaglia, “Fighting Fake News: A Role for Computational Social Science in the Fight Against Digital Misinformation,” Journal of Computational Social Science 1, no. 1 (2018): 147–153.
8. Juliette Astrup, “Doctor Google,” Community Practitioner 91, no. 1 (2018): 28–29.
9. Dariusz Jemielniak, “Wikimedia Movement Governance: The Limits of A-hierarchical Organization,” Journal of Organizational Change Management 29, no. 3 (2016): 361–378; Piotr Konieczny, “Decision Making in the Self-Evolved Collegiate Court: Wikipedia’s Arbitration Committee and Its Implications for Self-Governance and Judiciary in Cyberspace,” International Sociology 32, no. 6 (2017): 755–774.
10. Dariusz Jemielniak, “Naturally Emerging Regulation and the Danger of delegitimizing Conventional Leadership: Drawing on the Example of Wikipedia,” in The SAGE Handbook of Action Research, 3rd ed., ed. Hilary Bradbury (Thousand Oaks, CA: Sage, 2015); Piotr Konieczny, “Wikipedia: Community or Social Movement?” Interface: A Journal for and about Social Movements 1, no. 2 (2009): 212–232.
11. Joseph M. Reagle, “‘Be Nice’: Wikipedia Norms for Supportive Communication,” New Review of Hypermedia and Multimedia 16, no. 1–2 (2010): 161–180; Emiel Rijshouwer, Organizing Democracy: Power Concentration and Self-Organization in the Evolution of Wikipedia (Rotterdam: Erasmus University Press, 2019); Nathaniel Tkacz, Wikipedia and the Politics of Openness (Chicago: University of Chicago Press, 2015).