著者: Jackie Koerner
日本語訳: yomoyomo
以下の文章は、Jackie Koerner による Wikipedia Has a Bias Problem の日本語訳である。
原文は、Joseph Reagle、Jackie Koerner 編 Wikipedia @ 20 の第21章になる。
自由な知識のリーダーにはバイアスの問題がある。ウィキペディアの貢献者は中立性を目指して努力するが、現実には知識の公平性を歪めている。これはすべて貢献者の落ち度である。しかし、だからといって問題解決できないということではない。
私が自由な知識やオープンエデュケーションに夢中になるきっかけはウィキペディアだった。どんな関係性と同じく、ウィキペディアにも問題があった。年月を経るにつれ、私は痛み、インスピレーション、困惑、希望、不安を経験した。まず2001年に、私は情報を発見する新しい方法を見つけた。2008年には、ウィキ上で初めてハラスメントを受けた。2009年には、私のオープンエデュケーションへの情熱に学部長が腹を立て、その結果、私の大学院の学位は宙ぶらりんの状態になった。2014年には、ウィキペディアを研究のたたき台に活用した。2017年には、檀上に立ち「ウィキペディアを編集しています」と言ったら、大勢の大学人が私を笑った。このときは確信がなくなり、ウィキペディアについて抱いていた疑念に拍車をかけた。これが立ち止まり、ウィキペディアが自分にどんな意味があるのかじっくり考える契機となった。
はじめ、教育格差について私は何も分かってなかった1。私はアメリカ合衆国の特権階級で育った。通った学校は、生徒の教育ニーズをたやすく満足させられる十分な資金提供を受けていた2。私は自分が経験したことしか知らなかったのだ。それがウィキペディアに詳しくなった2001年に変わった。自由な知識の何たるかを学んだのである。はじめはコンテンツを消費するばかりで、お返しに何も貢献しなかったことは認める。それも一番自分に必要だったときにウィキペディアが私を助けてくれた2016年に変わった。自分には何もないと感じたときに、ウィキペディアは私に目的を与えてくれた。すぐに、ウィキペディアもまた私をどれだけ必要としているかに気づいた。
ウィキペディアでの作業は一筋縄にはいかない。知識へのアクセスを改善するために仲間と協力するのは喜びだ。けれど、軽視を目の当たりにすると心が痛む。例えば、「アメリカ人の小説家」カテゴリにもっとスペースを作ろうと、貢献者がこのカテゴリから女性の小説家を削除した3。女性の小説家は「アメリカの女性の小説家」というサブカテゴリに置かれた。あるカテゴリから別のカテゴリに女性を移す人たちは、これで問題解決と考えたが、別の問題を増幅させてしまった。男性でなく女性を移動した根拠も、それによって疎外を固定化していることも彼らはよく考えなかったのだ。この例は、我々の行動がいかに微妙な形でウィキペディアに影響を与えるかを浮かび上がらせる。
こうしたウィキペディアに影響を与える微妙な形こそがバイアスなのである。バイアスは、ウィキペディアにいる人たちとコンテンツに歓迎せざる環境を作り出す。我々のバイアスは、社会構造、慣習、原則に影響を与える。それはウィキペディアも例外ではない。20年に及ぶ発展を経た後も、ウィキペディアは今なお、それが変わろうとすること自体を妨げているのだ。
1948年、世界人権宣言は教育を人権の一つに挙げた4。誰にとっても公平というこの概念は分かりやすいにもかかわらず、未だ達成されていない。2億6千2百万人を超える若者が学校に通っておらず、若者の10人に6人が基本的な読み書き能力の獲得に苦労している――それが7億5千万人もの大人が読み書きできないのにつながっているのだ5。
ウィキペディアは、教材を提供する急進力であり続けている。その例として、アメリカでウィキペディアを活用して生徒の学習成果をあげる Wiki Education(20章)、ウィキペディアの貢献者が有料データベースにアクセスできるようにする Wikipedia Library(8章)、そして公共図書館とウィキペディアとの間の関係を強化する Wikipedia + Libraries: Better Together プログラムがある(6章)6。
けれども、「あらゆる人知の総和」を共有するというウィキペディアの志には及ばない。ウィキペディアは飛躍的に知識にアクセスしやすくしてきたが、利用できるある種の知識に関しては不十分なままである。
Wikimedia 2030 プロジェクトは、自由な知識が人間の多様性を真に代表するものと考えている。私自身を含む、百人を超えるコミュニティメンバーからなる9つのチームは、より良い参加や表現を行うのに必要なサービスや仕組みの概要をまとめるために協力している。Wikimedia 2030 プロジェクトは、以下のように宣言した。
社会運動として、我々は権力や特権の構造から取り残されてきた知識やコミュニティに力を注ぐつもりである。我々は、強く多様なコミュニティを作るためにあらゆる出身の人たちを歓迎する。人々が自由な知識にアクセスし、貢献するのを妨げる社会的、政治的、技術的な障壁を壊そうではないか7。
これが知識の公平性である――あらゆる人たちが参加し、存在することが、ウィキペディア上の知識の公平性を実現できる唯一の方法なのだ。
ウィキペディアにおける参加や表現の不均衡は、知の不平等を生み出す。こうした権力や特権の構造は、それを破壊しようとする意識的な努力がない限り存在し続ける。バイアスによって固定化されたコミュニティの権力や特権の構造は、ウィキペディアで可能なはずの知識の公平性を妨害すべく作用する。バイアスに異議を唱えないのは、無知よりも深刻である。我々は知識の公平性があることは分かっているのに、何もしないことを選んでいる。バイアスがすべての邪魔をするし、そしてバイアスが手に負えない勢いで広がるのを許してしまうと、それはウィキペディアの崩壊につながる。
Wikimedia 2030 の責務は、ウィキペディアが知識の公平性で実現したいことを言い表すことだ。しかし、その実現のために何をなすかはまだ規定されていない。ウィキペディアは知識の公平性を支援するプラットフォームであり、もちろんのこと、自由な知識の供給者は知識の公平性を実践すべきだ。百科事典を作り上げる人たちもまた、それを実践する必要がある。
バイアスは、我々が社会について持っている見解や信念から成る。我々はこうした見解や信念を家族、友達、メディアから学ぶ。バイアスは事実に基づくものではなく、社会的に作り上げられる。学習バイアスは意識的、意図的なものではない。
我々は皆バイアスを持っている。バイアスがあるから悪いというのではない。バイアスは我々の行動、信念、関係性、そして仕事にすら影響を及ぼす。バイアスという言葉を聞いて頭に浮かぶもっともありふれたバイアスは、ジェンダー、性的指向、人種差別である。あからさまに性差別的であったり、人種差別的にはふるまってなければ、自分にはバイアスがないと人は考える。バイアスに基づく行動は完全に無意識なものだ。女性の小説家を移動した貢献者の例がまさにそうだが、我々はほとんどの場合、バイアスに従ってふるまっているつもりはない。その多くはまったく意図的ではないのだが、だからその結果は有害ではないとはいかない。
学習バイアスは避けられないし、まったく無意識なものだが、だからといってすべて免責できるということにはならない。自分自身のバイアスを自覚するには大変な努力が要る。自分よりも他者の中にあるバイアスを識別するほうがずっと簡単だ。我々は群れに加わり、自分の見解や信念を裏付ける情報を探す傾向にある。
ウィキペディアにおけるジェンダーバイアスに関しては、多くの研究がなされている。ジェンダーバイアスはウィキペディアを大いにバランスの悪いものにしているが、それが知識を不正確に伝えるよう働く唯一のバイアスではない。
我々は中立的であろうと努力しているが、ウィキペディア上の成果は常にバイアスを含んでいる。バイアスは、ウィキペディアの方針、慣習、コンテンツ、参加など多くの領域で現れうる。
バイアスはインクルージョンの障壁になる。ここでの障壁とは、不均衡な参加と歪曲された知識のことを指す。もっとも目に見える障壁は、貢献者の維持、新興コミュニティ、コンテンツの排除に関わる。
バイアスを壊すのは難しい。そのもっとも一般的な実例が、方針や慣習の変更案が受けるイライラした反応に見られる。方針や慣習を疑うことなく擁護する貢献者が、包摂的な変化の実行を難しくする。これは、そうした貢献者が共感するより自分たちに耳を傾けるよう求めているために起きる。
確証バイアスは、人々が情報を解釈して自身の信念を再確認したと感じる際に生じる。貢献者が議論において自分の見地を支持する他者のコメントを読んだり、今の方針がうまくいかないところよりうまくいくのを多く見たときに生じるものである。この習性は、ウィキペディアコミュニティ内の問題がある権力力学を維持し、プロジェクトが日の目を浴びることが少ない知識を広める妨げになる。
自身のバイアスを考察するのは難しい。ここに実例がある。Wikimania 2017 で、私はバイアスについてのセッションを行った8。プレゼンを終えて質問を募ると、一人が立ち上がった。その人は、あなたのふるまいこそ偏っていると私が言ったら、あなたは私が間違っているとどう主張するか、と聞いてきた。その部屋がおしゃべりとブツブツ言う声に満たされたとき、私は喜びを感じた。
ある人がバイアスを指摘されたら、それはたいてい正当なものだ。この人は、誰かにその人のバイアスに注意を向けさせられて、自分は不当な扱いを受けていると感じたわけだ。私はその質問に答えるよう聴衆の人たちに勧めた。多くの人がセッションの内容に反応してくれたし、いかにバイアスが自分を苦しめ、仕事の邪魔をしたかの個人的な話を共有してくれた人さえいた。
思慮深い反応、激励、そして率直な無防備さに触れた後も、その人は依然として自分にバイアスがある可能性を拒絶した。このことがその人をひどく苛立たせたようで、数日間のイベントの残りの間もその人は私の前提が間違っていると説得しようとしたくらいだ。
その人は二年近く後になってそのときのやりとりを投稿したことからも分かるように、この個人のバイアスに向き合うことへの抵抗感は、今なおその貢献者を悩ませている。その人はウィキペディア上の議論の中で自身の経験を説明する投稿をしたが、その部屋にいた聴衆が自分のことを不当に批判したという感想をもらしている。その人は、「少数派」の人に百科事典の書き方が間違っていることを、白人男性がその特権を濫用していると思われないよう伝えるにはにはどうしたらいいか、と似た質問を問いかけ続けた。残念ながら、これこそが特権を濫用する白人男性なのだ。その人は、「こうやって我々は他者やその知識を排除してないか?」みたいに問いかけるのでなく、百科事典の発展、知識のキュレーション、公平性について自分たちのやり方に縛られたままでいるのを選んでいる。この疑問を問いかければ、多くの人たちの目を開かせることにつながるかもしれないし、そうすれば知識の公平性の達成に向けてウィキペディアを前進させられるのに。
バイアスを認めるのは難しく、それは痛みを伴う作業だが、重要なことだ。ウィキペディアはバイアスに取り組んでおり、我々はそこでの自分たちの役割に正直になる必要がある。問題を自覚して、バイアスの影響力を減らす行動をとる必要があるのだ。
ウィキペディアの方針や慣習は、西洋化した知識共有や情報発信の伝統に大筋則っている。その方針や慣習のため、包摂的な変化を受け入れるのは難しい。これは、百科事典の品質は西洋化した慣習が大事であり、この恣意的な原則に従わなければ何者であれ排除するというメッセージを伝えている。
ウィキペディアは2000年代初期にできた。その当時のインターネットは、今とはずいぶん違った。人々は自分のウェブサイトに望むものをなんでも公開した。オンラインでものを買うのは危険だと思われていた。生徒がネットで調査をすると言ったら、教師は笑ったものだ。ウィキペディアで発展した方針や慣習は、インターネットが当時取り組んでいた問題を反映していた。その問題は今でも残っているが、インターネットが我々の生活にかくも溶け込んでいるのを考えると、我々は多くのことを学んできたと言える。インターネットはこの20年の間に変化したが、ウィキペディアの方針や慣習は、その初期と同じ状態で硬直したままである。
ウィキペディアは、圧倒的に西洋のシスジェンダーの男性の主張、意見、そしてバイアスを具現化した。当時のコミュニティの意識は、かなり単一的な観点を示しており、それに沿った方針と慣習を発展させた。この土台を壊すのは難しい。変化やインクルージョンに関するウィキペディアの優先傾向は未だかなり単一的であり、多様な参加者がそこで支配的な文化の中で作業を行わなければならない原因になっている9。
前項で示した例において、その貢献者は「これが方針だ。あいつらはその方針に従っていない。この方針をあいつらに教えてやる」と自分に言い聞かせていたのだと私は思う。このウィキペディアの貢献者には、その部屋で示された情報や心の弱さに耳を傾け、よくよく考えてほしかった。この貢献者には悪意がなかったが、自身の見方やバイアスを通した世界観に凝り固まっていたと思うのだ。
もしその人がそのときのやりとりを反省していたら、そのセッションから得たものはかなり違っていたはずだ。おそらくは、その意図はなくても、いかにその状況に自身の先入観に基づく見方を当てはめ、コミュニティの他の人たちに物事のあるべき姿を語っていたか気づいただろう。
我々は皆、自分に言い聞かせる物語の犠牲者なのだ。このような状況での反応には、懸念への耳の傾け方が分からないくらい方針に固執すべきではない。我々はもっと包摂的で公平な世界に方針を順応させるべきである。
この心が狭く、柔軟性のない態度は、ウィキペディアコミュニティ内部で威圧や排除に働く。ただ白人のシスジェンダーの男性の見方から経験や歴史が従来語られてきたというだけの理由で、多くの場合、それらは意見というか解釈でしかないのに、社会内部でこうした主張や見方が事実と受け取られてきた。我々は皆、自分が生きた経験から人生を学ぶ。ウィキペディアコミュニティも何ら変わりはない10。
同質的な視点をコミュニティの方針や慣習に吹き込むと、害が及ぶ。既存の貢献者によって作られた方針や慣習に適合しないと、コンテンツや人は取り除かれ、排除されてしまうのだ。
ある重要な方針が、知識の不公正性を長続きさせている善意のバイアスの好例である。信頼できる情報源の方針は、ウィキペディアで利用される情報源や情報の形態を制限している。この方針は、百科事典に根も葉もない主張を投稿しないようにする必要性から生まれたものである。信頼できる情報源を要求することは良いことだが、ウィキペディアでの実装はその逆である。
この方針に合わせて資料を定義することには限界がある。学術出版物や査読付きの出版物を優先して出版された資料からの知識が、その出版物の時点での信頼性を担保するわけだ。信頼できる情報源の方針は、そのルールから外れた知識を無視するため、知識の公平性を制限してしまう。
出版された資料から得られる知識は偏っている。資料に出てくる人や知識も、主に白人の男性である。現行の信頼できる情報源の方針が書かれ、守られている状態は、ウィキペディアの知識のバランスの悪さにつながる。ウィキペディアにおける女性についてのコンテンツは、男性についてのコンテンツよりもずっと数が少ない。2019年10月の時点で、ウィキペディアにおける女性についての人物紹介は18%でしかない11。
西洋の出版物や知識共有の慣習寄りの姿勢は、ウィキペディアにおける多様なコンテンツの欠如に拍車をかける。ある人(もしくはある話題)についてのウィキペディアコミュニティの基準を満たす情報源がない場合、記事は書かれないことになる。その人は歴史から排除されてしまう。信頼できる情報源のような方針に従うことで、貢献者は出版された情報源に既に描かれているバイアスを再現し、悪化させているわけだ。
貢献者は、個人的な信念の基で、方針を考案し、決定し、従う。ウィキペディアコミュニティ内で権力を持つ者が、その方針や慣習にたてつく人たちの行為主体性を否定すると、ジレンマは大きくなる。
信頼性に関する方針は、しばしばばらつきや多様性のあるものを排除する形で適用される。我々はコンテンツのバランスを目指すべきである。多様な情報源から知識を提供すべきなのだ。現実はそうでなく、お互いの意見に耳を傾けることを拒否している。これは止めなければならない。現在は情報が正確に表現されていない。貢献者は押しのけられる。知識は失われてしまう。
ウィキペディアコミュニティの人たちは、お互いに耳を傾けていない。共同作業がけんか腰のやりとりに退化している。知識の公平性、信頼性、検証可能性、中立性に関する議論は、バイアスからエネルギーを吸い取ってしまう。コミュニティと知識は排除されたままで。
コミュニティはしばしば、方針、慣習、コミュニティの基準についての質問に対して、防御的に反応する。その人について基準を満たす出版形式で何もないからという理由で、著名な人が記録できない12。オーラルヒストリーでそのテーマが引き合いに出される場合でさえ、情報に疑問符がつけられる13。女性科学者は賞を受賞しないと有名にならないが、その男性の同僚はそうして認知される前から著名だったりする14。
権力を持つ社会集団にはバイアスに起因する不均衡を是正する特権があるが、無知を撲滅する責任は排除された側や抑圧された側にある。この感情労働は、既に酷使された個人やコミュニティに重い負担をかける。これはウィキペディアでも同じである。「大胆になれ!」と言われるが、大胆になるのは危険が伴う。誰にも変化を成立させる力はあるが、権力構造は長年の貢献者、管理者、政策決定者を優遇する。ウィキペディアコミュニティの中でも、これらの集団が力を合わせて変化を拒否する。
例えば、懸念すべき慣習として情報の門番を議論すると、別の貢献者は私と意見が合わなかった。議論を行い、解決策を生み出す努力をするのでなく、その人は私のウェブサイトを「48ページ全部読んで」、私がその人と意見が合わないなら「大敵」だというメッセージを私に送り付けることを選んだ。この人は、自分がウィキペディアに数えきれないくらいの時間と何千ドルものお金を費やしたことを引き合いに出して、この振る舞いを正当化した。
この不快な経験は、他のと比べれば軽かったが、いずれも同じ意図がある。それは多様な声を黙らせることだ。コミュニティ内の歯止めが効かない権力力学は、ウィキペディアのコンテンツや方針にあるバイアスに取り組もうとする声を黙らせる役割を果たしている。
我々が必要とするウィキペディアは、狭量な方針や慣習を排除し、包摂的になるべく文化を高めなければならない。必要とする人たちに我々のサービスが届いていないのなら、我々は不平等を守っていることになる15。
教育は社会的流動性や社会の安定に大きな役割を果たす。ウィキペディアは、人間の品性が日々どうふるまうかの実例を表現している。ここではウィキペディアコミュニティが、ボランティア精神という無比の情報源を介して社会的利益のために休むことなく活動する。嫌になるような不均衡が存在するのは、投稿者層の同質性、彼らが作り上げた制限的な方針、そして方針の実践における一貫性のなさゆえである。論理が非論理的に設計されているこうした状況下では、あらゆる人知の総和を作り上げるのは不可能である。それでも望みはある。ウィキペディアは20歳になったばかりなのだ。
これを変えるには、一人の人間や同質的な集団で始めても駄目だ。そうした集団に決定される知識のキュレーション、方針の展開、変化の否定は、ウィキペディアの成長を妨げる。同質的な集団によって開発されたコミュニティの合意を受け入れ続ければ、ウィキペディアは永久に未熟な状態のままだろう。我々は良質な情報源に関心を持つべきだし、世界各国で何をもって良質な情報源とするかに耳を傾ける必要がある。我々はボランティアであるべきだし、より多くの人たちもボランティアになってもらうべくスペースをテーブルに設けるべきである。公平性に限りはないのだ。
公平性は、人々が社会にある抑圧的で不均衡な方針や慣習に対して行動を起こすことでもたらされる。ウィキペディアで公平性のある方針や慣習を制定し、多様な視点を押しつぶすべく対話を操作するのを拒否し、変化は恐ろしいものではなく、むしろ素晴らしいものであるのを受け入れれば、我々は世界を変えれる。変化しなければ、我々は抑圧、排他、そして継続的な無知によって開いた傷を負わせ、深くし続けることになるのだ。
本章の内容は読者にとって聞き覚えのあるものかもしれないが、多くの点で読者の考えと異なるものだったかもしれない。お互いの生きた体験に耳を傾けることで、我々はコミュニティとしてともに変化する。自分たちが受け入れられると思うものを受け入れるだけではなく、知識の公平性のために必要なものを受け入れなければならない16。
知識の公平性に取り組み、ウィキペディア上の社会的課題の影響を減らすべく改革を実行する過程で、我々は注意して前進しなければならない。より強力な文化的規範を設定し、不品行に対する権限を与えるなど、他よりもよりはっきりした支援が必要な分野もある17。我々は、傾聴、証言、主張の手法を通して成長を促進すべきである。このように成長すれば、ウィキペディアと知識の公平性の環境を変えられる。
コミュニティ、そして百科事典としてのウィキペディアは最初の20年でいくつもの驚くべきことを成し遂げてきた。オンラインで共同作業を行い百科事典を作り上げることがどういうことかを我々は学んだ。オンラインコミュニティ、オンラインの共同作業、情報共有について多くの情報が展開されてきた。教育者や知識の専門家が、同僚が懸念や問題を表明するのを気にすることなく、情報リテラシーを教えるのにウィキペディアを利用し始めた。ウィキペディアコミュニティはここまで来たが、なすべきことがまだたくさんある。あらゆる人知の総和を真に実現する望みがあれば、ウィキペディアの次章は、バイアスによって固定化された不平等に有意義に取り組む必要がある。未完成で、一部のサークルはずっと進歩的で、少し粗削りではあるが、20歳になってもウィキペディアは実験的、教育的な平衡装置であり、知識の平等の解決策である。我々はその成功を妨げるのを止めなければならない。
1. UNESCO Institute for Statistics, Reducing Global Poverty through Universal Primary and Secondary Education, (Policy Paper 32/Fact Sheet 44, UNESCO, June 2017), https://unesdoc.unesco.org/ark:/48223/pf0000250392.
2. Cory Turner, “Why America’s Schools Have a Money Problem,” Morning Edition, NPR, April 18, 2016, https://www.npr.org/2016/04/18/474256366/why-americas-schools-have-a-money-problem.
3. Alison Flood, “Wikipedia Bumps Women from ‘American Novelists’ Category,” The Guardian, April 25, 2013, accessed July 20, 2019, https://www.theguardian.com/books/2013/apr/25/wikipedia-women-american-novelists.
4. Wikimedia, s.v. “File:The Universal Declaration of Human Rights 10 December 1948.jpg” (United Nations), last modified March 12, 2019, https://commons.wikimedia.org/wiki/File:The_universal_declaration_of_human_rights_10_December_1948.jpg.
5. “Leading SDG4—Education 2030,” UNESCO, n.d., accessed July 29, 2019, https://en.unesco.org/themes/education2030-sdg4.
6. Wikimedia Commons, s.v. “File:Student Learning Outcomes using Wikipedia-based Assignments Fall 2016 Research Report.pdf,” June 1, 2017, accessed June 10, 2019, https://commons.m.wikimedia.org/wiki/File:Student_Learning_Outcomes_using_Wikipedia-based_Assignments_Fall_2016_Research_Report.pdf.
7. Meta-Wiki, s.v. “Knowledge Equity,” s.v. “Strategy/Wikimedia Movement/2017/Direction,” accessed June 16, 2019, https://meta.wikimedia.org/wiki/Strategy/Wikimedia_movement/2017/Direction#Knowledge_equity:_Knowledge_and_communities_that_have_been_left_out_by_structures_of_power_and_privilege.
8. Wikimedia Commons, s.v. “File:Koerner Implicit Bias Wikimania 2017.pdf” (Jackie Koerner), accessed on June 10, 2019, https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Koerner_Implicit_Bias_Wikimania_2017.pdf.
9. Amanda Menking, Ingrid Erickson, and Wanda Pratt, “People Who Can Take It: How Women Wikipedians Negotiate and Nagivate Safely,” in CHI ’19: Proceedings of the 2019 CHI Conference on Human Factors in Computing Systems (New York: ACM, 2019), https://dl.acm.org/doi/10.1145/3290605.3300702.
10. Marti Johnson and Alex Wang, “Wikimedia Foundation Releases Gender Equity Report,” Wikimedia Foundation, September 21, 2018, https://wikimediafoundation.org/2018/09/21/advancing-gender-equity-conversations-with-movement-leaders/.
11. Wikipedia, s.v. “Wikipedia: WikiProject Women in Red,” accessed October 26, 2019, https://en.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:WikiProject_Women_in_Red.
12. Wikipedia, s.v. “Notability Is Geared towards the White Male Perspective,” s.v. “Wikipedia talk: Notability/Archive 63,” accessed June 10, 2019, https://en.wikipedia.org/wiki/Wikipedia_talk:Notability/Archive_63.
13. Wikipedia, s.v. “Wikipedia: Oral History,” accessed on June 10, 2019, https://en.wikipedia.org/wiki/Wikipedia:Oral_history.
14. Dawn Bazely, “Why Nobel Winner Donna Strickland Didn’t Have a Wikipedia Page,” The Washington Post, October 8, 2018, https://www.washingtonpost.com/outlook/2018/10/08/why-nobel-winner-donna-strickland-didnt-have-wikipedia-page/?utm_term=.f0c748d01376.
15. Miranda Fricker, Epistemic Injustice: Power and the Ethics of Knowing (New York: Oxford University Press, 2007).
16. Walter Frick, “Wikipedia Is More Biased Than Britannica, but Don’t Blame the Crowd,” Harvard Business Review, December 3, 2014, https://hbr.org/2014/12/wikipedia-is-more-biased-than-britannica-but-dont-blame-the-crowd.
17. “Your Code of Conduct,” Open Source Guides, n.d., accessed June 10, 2019, https://opensource.guide/code-of-conduct/.