「少年が精神を病んだ人であって欲しい」 これはTBSアナウンサー秋沢淳子が私的に開設しているWebページにおける日記の中の一節である。僕はこれを読んで、日本のマスメディアの最前線にいる人間の思惟の浅はかさに呆れたが、これが多くの人の偽らわざる心境なのかもしれないのもまた確かである。
ここで「少年」が誰を指しているかについて多言を要すまい。神戸市須磨区で起きた一連の凶悪事件の容疑者である14歳の少年である。言っておくが、97年7月の時点で「容疑者」である。「犯人」ではない。こうした最低限の常識的言葉使いすらままならないマスメディアをどうこう言っても仕方がないのかもしれないが、写真誌、ワイドショーの盛り上がりに代表される報道としての質の低さと、冒頭に掲げた言葉に象徴される短絡思考は、ある一点において結びつくように思われる。それは、想像力の欠如である。
人間が人間たる理由、僕はそれを言葉と想像力に求めたい。宇宙と比すれば、人間もゴキブリも瞬きほどに塵埃に過ぎない。しかし、人間は自分が体験もしていない、宇宙の始まり、終わり、仕組みを(解き明かすことが出来なくても)勝手に想像できてしまう厄介な生命体なのである。想像を経た思索がなくなれば、人間が発する言葉も、動物の本能的に行う雄叫びと変わるところはなくなってしまう。
そこで秋沢女史の言葉に戻ると、精神を病むということに関する想像力を全く働かせていないのは明らかなのが問題なのである。
彼女の言葉通り、少年の精神が病んでいたとしよう。されば事件は一件落着するのか。そうでなくても、事件から得た衝撃、恐怖がいくばかりか軽減されるのか。そもそも精神を病むとはどういうことなのか。今回の一連の犯罪を一少年の狂気に矮小化しようとしている人達にそれを問うても満足な答えは返ってくるまい。
結局のところ、彼らは事件を自分と出来る限り関係ないところに落とし込めて安心したいのである。言うまでもなく欺瞞であるが、それを覆うために、少年の写真掲載やら学校やら家庭やらの問題に憤慨して見せ、問題提起したつもりになっている。本当は、ワイドショーを見て、覗き見趣味を満たしているだけなのに。
一連の犯行を少年の供述通り、彼一人の凶行だと仮定しよう。彼の凶行は明らかに市民生活の許容する範疇を逸脱している。しかし、それほど彼が「我々」から逸脱しているのだろうか。一概にそうとは言えるまい。
伝えらている彼の凶暴性の発露は、殺人事件を除いても、常識性を逸脱している。しかし、凶暴性自体が人間を逸脱しているのではない。誰でも殺してやりたい人間ぐらいいるだろう。僕の場合、何とか片手に納まるぐらいだが、それだから自分が不幸だとは正直思わない。そして、実際誰もが人を殺してもおかしくはないのである。
それなら、今までその罪を犯さなかったのは何故なのか。法による罰があるからか。それだけでは不十分である。孟子言うところの「心の官」の存在があったからではないだろうか。孟子はこの「心の官」こそが人間の根幹だと考え、性善説に達したが、僕は残念ながら彼に同意はしない。
現代人が軽視しがちなものに、この良心がある。良心などというと人の行動を決定するには軟弱な要素のようであるが、小林秀雄が書くように、人生を簡単に考えても人生が簡単にならないように、良心とは無視しようとも、良心は歴然とした事実なのだ。
しかし、僕が性善説を採れないのは、「心の官」すらも、ひとりでに善の方向を向くとは考えられないからである。「心の官」すらも広い意味での教育によって育てられるものだと思うからだ。教育の内容は、その時代時代で異なるだろう。それでも、子孫にその時点での出来る限り英知を授ける----愚直とも言えるが、教育がこの愚直さを失ってはそれは態をなさない。
すなわち、自分自身も人を殺し得るし、これからそれが起こることが十分あり得ること、並びにその際、自分はそういう良心の葛藤に襲われるのか、それを人間の内的な力で押さえるとしたら、人間は子孫に何を教育していかなければならないのかの議論なしに、学校の問題だの教育の荒廃など議論するのは噴飯ものである。
そして、少年の精神を狂気の器に押し込めるのは勝手だが、狂気は相対的なものであり、通り魔事件の頻発を挙げるまでもなく、我々は狂気に面して生活しているという事実、それに脅え社会を拒絶するのは結構だが、好むと好まざるとに関わらず、我々は社会生活という現実から逃げられないことを再認識すべきである。
また、そうした社会との擦り合わせを拒否し、自らの内なる幻想に支配されて凶行を犯してしまう人間が、ありふれた地域社会の中で生まれたという事実があるなら、彼の内なる世界と自分のそれとにどういった相違があるのか、つまり彼の罪を に寄り添う想像力を持つこと、それなしには我々が少年を裁くことは出来ないのではないだろうか。
[後記]:
今や随分と昔の出来事にすら思えるのだが、酒鬼薔薇聖斗君の事件にインスパイアされて書いた文章。目茶苦茶気負っていて、文章が硬いし、何より筆舌尽くし難くヘタクソ。どう手を加えても救い難い文章なのだが、後半が何とか出発点には辿り着いているので残した。やはり「子どもの主体性を重視したのびのび教育」なんてのは間違っている。