「宗教とは逆立した世界認識である」とはカール・マルクス先生の御言葉である。この言葉は、氏の「宗教とは阿片である」という有名な言葉と同じ考から出たものであるが、それは宗教に対する警告というよりも、宗教に対する嫉妬心に近いらしい。
逆立があるとすれば当然正立がある。マルクスにとっては、彼らが主催する「インターナショナル」の理想こそが正立に当たるべきであった。マルクスに限らず、思想家たる者は皆、自分が編み出した思想こそが世界の神髄に正立するものであると信ずる。なのにそれよりも宗教が幅を利かせるのが西欧社会の現実である。その不合理さ故に、彼らは宗教に嫉妬する。
数年前フジテレビの News Japan で、ある小冊子が取り上げられたことがあった。たまたま見ていたテレビの画面に驚愕した筆者は、サークルの友人に電話しまくった。
取り上げられた冊子とは、僕が大学一年生の時の大学祭のパンフレットであり、僕は当時大学祭の企画、運営を行うサークルに所属していた。大学生が作ったパンフがどうして全国ネットのニュース番組で取り上げられたのかというと、その大学祭に、オウム真理教教祖麻原彰晃が招かれていたのだ。パンフレットにその紹介文が載っていたのは言うまでもない。
サークルの名誉のために書いておかねばならないが、彼を招いたのは我々のサークルではない。正確には覚えてないが、やはり「それ系」のサークルだったろう。
残念ながら、その年の大学祭はサークルの仕事が余りにも忙しく、麻原を見る暇がなかった。今から思えば一目でも見ておくべきだった。同じサークルで見た人に聞いたところ、彼の周りでお香なんぞ焚いていて、非常に臭かったそうである。
オウム幹部の供述が真実なら、オウムの信者はもう既にその時までには幾つかの殺人を含む犯罪に手を染めていたことになる。
余談であるが、麻原がうちの大学をうろついていたその頃、僕はステージ設営で死に目にあっていた。夜そのステージに立ったのは、当時殆ど無名の Mr. Children であった。なんという運命のいたずら!
「オウムは宗教ではない。ただの殺人者集団だ」と言われて久しい。国民的なコンセンサスに近いとさえ言える。今回はこの硬直化した物言いについて議論を進めていく。
筆者が彼らの存在を知ったのは高校生のときか。そのとき、直感的に僕は彼らを嫌悪し、拒否した。その直感は今でも揺るがないし、正しいと思う。ただ、直感レベルでオウム真理教を否定するのでなしに、大学教授やら宗教家やらがテレビのワイドショーに担ぎ出され、偉そうにオウムの宗教性を否定して見せるのには前から言語化しにくい疑問があった。
宗教を宗教たらしめているものは何なのか。僕なりに結論を出すなら、マルクス言うところの逆立性に行き当たる。もっとはっきり言うなら、狂信性である。これはキリスト教系の宗教にはっきり当てはまるが、この言葉に不愉快を覚える人がいるならば、非合理的な求心力と置き換えても構わない。
僕にはオウム真理教が、極めて宗教らしい宗教に思える。断っておくが、これは彼らを肯定しているのではない。僕は、組織化された全ての宗教について肯定的な考えを有しない。
元々オウムは仏教系の宗教であるが、その狂信性については、彼らの犯罪を除いてみても誰もが認めるところであろう。しかし、ここで問いたいのだが、例えば原始キリスト教のそれとどう違うというのだろう。
マタイによる福音書の中の一挿話を紹介する。
ある青年がイエスの前に進み出で、永遠の生命はどのようにすれば得られるかを問うた。イエスは、殺生、姦淫、盗み、虚偽を排し、両親、隣人を愛するように、と答えた。青年は、それは皆守ってきた、それ以上に何が必要か、何が足らないか、と再びイエスに問うた。イエスは、冨を売り払い、貧しい者に施しをせよ、と答えた。それを聞いて、青年は悲しい面持ちになってイエスの前から立ち去った。イエスは弟子達に重ねて言う。富めるものが天国に行けるのなら、駱駝が針の穴を通れるだろう、と。
この挿話は、ある意味非常にグロテスクな前提を我々に突きつける。真面目な青年も、イエスに教えを乞うくらいだから現状に充足した金持ちではないのだろう。だがイエスの教えは守ろうとも、イエスから見て「富める」程度に金を持っていたら天国には行けないのだ。
この挿話ではっきりするのが、道徳と宗教の違いである。前述のイエスの第一の答えは、道徳的であれということを言っている。嘘を吐くな、隣人を愛せ、これらは、それこそカレンダーの日付の下の付された一日一善の標語とさして思想的に上下はないだろう。そこに書かれた言葉は道徳的に正しい。しかし、現実的にそれを見て心を入れ替える人間などいるだろうか。明らかに道徳性だけでは宗教を語ることは出来ないのである。
そこでイエスの第二の教え、これも人の道に反してはいないが、単なるお道徳からは一歩足を踏み出している。金持ちでなくても貧しき者に施しをする、それはいささか無茶ではないか、私にだって日々の生活がある。そうしたいのはやまやまだが、こっちはこっちで精一杯だ、といった常識性、日常性はイエスの確信の前では無力となる。道徳が相対的であるのに対し、宗教はある種の絶対性を(信者の間では)持つのである。
貧しい者に施しせよ、という言葉を、教団に寄付せよと置き換えるのはそう難しいことではない。思考の根本が逆立している(神という結論が先にある)人達にすれば、教団に財産を喜んで寄進する者もいるだろう。そして、彼らから見れば、宗教により覚醒していない周りの人間がたまらなく愚鈍に見えるに違いない。そうした愚民をこちらの手で強制的にでも覚醒してやろうではないか、という独善、もっと手っ取り早く愚民から自分達の正義のための金を取ってしまおうじゃないか、という能率性の追求、そこまでは殆ど距離はない。
村上春樹がオウム信者と対話し、彼らが「けっこういい奴ら」であることに驚いたらしいが、馬鹿じゃないかね、村上なんとかって。そんなの当たり前の話じゃないか。彼らが上司の愚痴で憂さ晴らしするサラリーマンや援助交際やっていい気になっている女子高生より「いい奴ら」でないとしたら、来年世界が破滅しても構いやしない。僕は人間嫌いの厭世家であるが、そこまで人間に対する信頼を失ってはいない。
それなら彼らに何が足らないのか。米長邦雄は将棋に例えて説明する。将棋のアマ初段は、当然ながらその道のプロにはかないはしない。しかし、将棋の初心者から見れば、プロでもアマ初段でも同様に自分より将棋について知っているように見える。アマ初段であっても、怪しげな手で初心者を騙すことにわけはない。そのようにして今時の「教祖」は自分を神に見立てるのだ。
以上の話はアマ二段の筆者もうなづくところである。確かに筆者程度の実力でも、初心者に対しはったりめいた手「のみ」で勝つことも可能なのである。
そうなるとオウム信者達は麻原の怪しげな力に騙された被害者となりそうだが、やはりそうはいかない。無知は不幸ではないが罪なのだ。そして無知という罪は、それを基点として更なる罪を引き起こす。
それならば、彼らは何を見抜くべきだったのか。オウム真理教に特化した話となると既に様々意見が出ているが、宗教全体に枠を広げて僕の意見を述べるならば、宗教としての方法論の有無になる。前述の原始キリスト教(というかイエス・キリスト)においても、当初人々から求められたのは五個のパンと二匹の魚で人々の腹を満たした話や病人達の命を救った話に代表される現世利益のための神であった。福音書に記された様々な奇蹟の話も、何より当時のユダヤ人が直接的な救済者、つきつめれば政治的な指導者を求めていたことの現れなのではないか。
しかし、キリスト教がユダヤ人の枠をこえて全世界に広がった理由、それは単なる治癒神でなく無力な人間(と神)、そして人間存在の不条理を愛の力で超えていこうとする方法論を見出したからだ。またそれに対する当時のユダヤ人の幻滅感がイエスを十字架に架けることになるのだが、イエスを一度は裏切った弟子達(イエスを裏切ったのはユダだけではない。イエスの死の時点で、弟子達は彼を一度見限っている)に死を賭した宣教を強いたのは、イエスそのものでなく彼が見出した愛という方法論だったのだ。
そこで現代日本に目を向けた場合、社会的な成熟はあれども、人間としての存在が抱える不条理、無意味性については全く手付かずのままである。当然だろうが。
心から消えない空虚と無力感に対し、宗教に救いを求める人々がいて何ら不思議ではない。それはこれからも変わりはしないだろう。それでも我々はそろそろ学んでもよさそうなものだ。本当に必要なのは、空中浮遊できる教祖なんかではない筈だ。彼が人間の生に対する方法論を持っているかどうかに帰着すべきなのだ。オウム信者は麻原の本質を見ぬけなかった点において罪人であるが、それを嗤う他の人間達にしても、他の局面では自分を超える現人神を求め、信じようとする。そして自分が信じた人物が神でなく一個の俗物であることを暴き非難する点においてオウム信者と何ら精神的な上下はなく、同様に罪人なのである。
[後記]:
読む人が読めば自明なことだが、呉智英の文章からの影響が透けてみえる。彼には大きな影響を受けている。
この文章に対して読者からご批判をいただきましたので、当方のリプライも含め公開しました。今更ながら「今更ながら宗教の話で何ですが」で何ですがをご覧下さい。