参加型メディア時代におけるウェブログとジャーナリズム

著者: Rebecca Blood

日本語訳: yomoyomo


以下の文章は、Rebecca Blood による Weblogs and Journalism in the Age of Participatory Media の日本語訳である。

本翻訳文書については、鈴木秀幹さんに誤訳の訂正を頂きました。ありがとうございました。


2003年9月に「Weblogs and Journalism: Is there a connection?」というタイトルの文章を公開した Nieman Reports を受けて

我々は、情報のアクセスと伝播の新時代を迎えつつある。インターネットへの情報公開を容易にするツールが、何百万人もの人々のデスクに印刷機に匹敵するものを与えてきたし、いよいよそれはポケットに収まるものになっている。アマチュアの報道と個人パブリッシングの違いを分かっておかないと――そしてウェブログをそうした報道のまさに一形態だとみなすなら――我々は、そうした活動が文化、ジャーナリズム、そして社会に対して持つ密接な関係を十分に理解できないだろう。

ウェブログ――新しい順に投稿が並び、最新の記事が常にページの一番上に来る、頻繁に更新されるウェブサイト――の解説から始めよう。初期のウェブロガーは、選り抜いたニュース記事やウェブページに、通常簡潔なコメントを付けてリンクした。予めデザインされたテンプレートに記述することで、ユーザがエントリを迅速に投稿できるようにしたソフトウェアが生まれ、短文式の日記が爆発的に増えることとなったが、新しい順に表示されるフォーマットは変わらなかった。それこそが、あるウェブページがウェブログか否かを判定するフォーマットである。

ソフトウェアよりもその形式が先にあることに注意すること。使いやすいソフトウェアが、ウェブログの形式を急速に普及させる原動力となってきたが、ウェブログはそうしたソフトウェアなしにも作成されうるものである。ウェブログは、間違いなくウェブから生まれた最初の表現形式である。その基本単位は投稿(post)であり、記事(article)やページではない。ブロガーは、あるトピックについてチョイスしたものについて何かしら書くと、エントリはページ上に一まとめに表示されるが、エントリそれぞれにpermalink(永続リンク)が与えられるので、個々のエントリは独立して参照できる。

ハイパーリンクこそウェブロギングという手法に必須なものである。ブロガーがオンラインにあるマテリアルを参照する場合、彼らは必ずそれにリンクをはる。ハイパーテキストのおかげで、書き手は多くの一次情報に向けたリンクを付け、複雑なストーリーを要約、脈路化できる。最も重要なのは、リンクが紙媒体では不可能な透明性をもたらすことである。リンクのおかげで、書き手はオンラインにある情報源であれば直接参照できるので、読者はその書き手が正しく書いているか、参照されたものを理解しているかというところまで判断できるわけだ。参照はするが、結論を完全に覆す可能性のあるマテリアルにリンクしないブロガーは、道理的に不誠実である。

ウェブログはジャーナリズムの一形態なのか?

初期の「ウェブログはジャーナリズムの新形態」という主張は、徐々に「ウェブログの中には、少なくとも活動時間の一部は、ジャーナリズム活動を行っているものもある」というように修正されてきた。ウェブログに熱狂する人達でさえ今では認める通り、記憶を記録したり、結婚式のプラニングをしたり、ワークグループを調整するのに利用されるウェブログは、どんな定義をしても、ジャーナリズムには分類されえない。ウェブログとジャーナリズムについての議論をする際に、必ず聞かれる最初の問いは、どんなウェブログがジャーナリズムといえるのか? ということである。

引き合いに出される四つのタイプのウェブログは以下のものである。

評価を得ている報道機関により運営されるウェブログは、その報道機関全体に適用されるのと同じ基準を保つなら、確かにジャーナリズムとみなされるだろう。しかし、ジャーナリストにより運営される独立系サイトも、その作者がジャーナリストであるという理由だけで、自動的にジャーナリズムと同等のものであると主張する人達もいる。ジャーナリストが執筆する小説が必ずしもジャーナリズムとみなさせるわけでないのと同じように、ジャーナリストが執筆するウェブログが必ずジャーナリズムとみなされる道理はない。手法はそれを行う者を規定するが、その逆ではないのだ。最近、ニューヨークタイムズで記事を捏造したことで解雇された Jayson Blair のケースは、ジャーナリストの世評や認知がどうであれ、ジャーナリズムは、肩書きやプロとしての地位ではなく、一般に認められた原則と基準に厳しく忠実であることが重要であることを示している。

ウェブログをジャーナリズムであると唱える人達の中には、業界インサイダーにより作られるウェブログを業界ジャーナリズムの未来の姿だと主張する人がいる。彼らが主張するところによれば、記者は非常に複雑な話を伝える場合でさえ、ほんのわずかの情報源にしか頼らない傾向があるが、その分野に従事する人達が執筆するウェブログならば、自ずと自身の専門分野について、より完全なバージョンとなるニュースを伝えてくれるというのだ。しかし、ある論点に関する一般的な認識に利害関係――社会人ならば間違いなくあるような――のある人は、先入観の入っていない見方という意味では最も信頼ならない存在でもある。健全性を持ってなされるなら、彼らの解説は適切な情報、陰影に富んだ見聞の広い分析の大きな情報源になりうるが、それが一般のオーディエンスが理解できる公平、正確、かつ完成した記事を組み立てることができるというジャーナリストの権限にとってかわるということは決してない。

個人的な文章となると、もっと厄介である。目撃者の文章はジャーナリズムなのか? もしそうなら、どういう場合にそう言えるのか? 事件によるのか? 別の人ではより完全な記事を編集することができない場合か? その文章を書く人がスキルを持っている、トレーニングを受けているかどうかによるのか? どういう場合に個人による回想がジャーナリスティックなレポートになるか判定するのに用いられる基準は、事例次第で変わらないとも限らない。

残るは、時事問題についてのリンクを主体とするサイトである。これらのウェブログと、新聞やニュース放送を作るのに必要な活動の一部の背景となる手法には、確かに類似性はある。新聞の編集者が、どの記事原稿で行くか選ぶのとちょうど同じように、ウェブログ編集者は、どの記事をリンクするか選択しているわけだ。しかし、ブロガーは、どの事件を報道するか決定する立場には決していない。ちょうどコラムニストが、事件についてのその人の解釈を示すのに、ニュース記事を跳躍台として利用するように、ブロガーは通常、リンクするものについて思うところを述べることで満足する。

しかし、これはジャーナリズムの新形態なのだろうか?

率直に言って、ノーだ。誰かが報じるニュース記事にリンクし、思うところを述べる際、私はジャーナリズムを実践しているのではない――私は何年もウォータークーラーの周りで似たようなことを行っている。言いたいことを述べるのに補足となる情報を求めてウェブを検索する場合、私はリサーチを行っているのであり、ジャーナリズムを実践しているのではない。記者は書くのと同じくらいリサーチを行うかもしれないが、リサーチだけでは、そうした活動をジャーナリズムとはみなさない。ブロガーは読者のコメントを、自分達が投稿する記事の情報源に挙げるかもしれないが、それらは編集者への手紙にあたるもので、報道ではない。読者からの内容の根拠がない(匿名な場合もある)電子メールを公開するのは、たとえそのメールがジャーナリストの資格を持つ人からのものであっても、ジャーナリズムではないのだ。信頼できるジャーナリストは、必ず目撃者や専門家と直接話をするが、そのような活動をブロガーが行うのはめったに見ることがなく、事実上存在しない活動である。

時事問題について何かしら書く誰もを範疇に含むように「ジャーナリズム」という言葉を膨張させるよりも、ジャーナリストにより報じられるニュースを、ブロガーが積極的に強調したり組み立てたりするのには、「参加型メディア」という言葉をあてるほうが私は好ましいと思う。それを実践するのは、もしかするとジャーナリズムと同じくらい重要――それでもジャーナリズムとは別物――である。

参加型メディアとしてのウェブログ

さて、私がウェブログとジャーナリズムは根本的に別物だと言う場合、私が言いたいのは、大部分のウェブログは、オリジナルの報道を行っていないということだ――私にとっては、それこそあらゆるジャーナリズムの核心である。しかし、MSNBC の前のエグゼクティブ・プロデューサである Joan Connell は、編集作業を経る場合に限り、ウェブログはジャーナリズムになると思うと語っている。これは、プロとしての基準やプロセスにこだわらず、ウェブログの形式を取り入れてきたジャーナリストにはあまり受け入れられないだろう。もちろん、報道機関と関わりのないブロガーなら、編集者をなだめたり、広告主を攻撃したり、情報源との関係に悪影響を与えることを心配することなく、実に率直に意見を述べるかもしれない。つまり、彼らには上に挙げる人達が存在しないのだから。

ブロガーがニュースを報じる場合、その形式は通常、実践することと一致する。政策アナリストである David Steven は、2002年の持続可能な開発に関する世界首脳会議を詳細に報道すると決めた際、その日あった出来事について簡単に情報を掲載できるように、ウェブログ The Daily Summit を設置した。彼は記者会見に参加し、会議の議長にインタビューを行い、議事録の要約を行った。しかし、これはウェブログという形式の功績ではない。それは使いやすい情報公開ソフトウェアが自由に利用できれば可能だったことだ。最終的に選択したプロダクトがウェブログだったことは、Steven 氏の目的とは無関係である――また、彼の読者とも無関係だ。二週間に渡り、Steven 氏は最前線におり、サミットからニュースの報道、編集、そして公開を行った。これはジャーナリズムか? 私はそうだと思うけど、Connell 氏は反対するかもね。

何百万ものアマチュアの書き手がウェブログを作る最大の理由はおそらく、最も使いやすいウェブパブリッシングツールを使えば、そのフォーマットにしかならないことにある。ブログは、個人がウェブパブリッシングを行う場合のデフォルトの選択肢になっており、ブログと個人によるウェブパブリッシングの二つが結びつくまでになっている。コメンテータがジャーナリズムの未来としてのウェブログについて語る場合、「個人パブリッシングがジャーナリズムの未来だ」とか、「アマチュアの報道がジャーナリズムの未来だ」と言っているように見えるときがある――が、それらいずれについても、ウェブログという形式は明らかに必要ではない。

個人パブリッシングやアマチュアの報道が異なる形式を採り始めるかは、プロでない人達が他の種類の刊行物を作成したり、寄稿したりするのを可能にするツールが利用できるかどうかにかかっている。韓国の「OhMyNews」というウェブサイトは、誕生日のお祝いから政治的事件まであらゆることに関する記事を投稿する26,000人以上の「市民レポーター」を雇っている。そのウェブサイトは、選挙後の最初のインタビューをそのサイトで行うことを承諾した盧武鉉を韓国大統領に選出するのを助けたと信じられている。これはアマチュアの報道ではあるが、ブロギングではない。

私は、ウェブログがオンラインにおける個人パブリッシング時代の最初の波として広く受け入れられているのだと思う。ウェブログソフトウェアは、コンテンツ管理ソフトウェアに発展するにつれ、他の種類のオンライン刊行の高まりを招いているが、それらの多くは、継続的というよりは定期的に更新されるものである。もしこれらの刊行物がウェブログを採用するなら、それはサイトの中心ではなく、注釈の付いた目次になるだろう。アマチュアの報道はもっと広がるだろうし、とりわけ写真やテキストをアップロード可能なモバイル機器の普及によりそれが広がるだろう。これらの機器は普及するだろうが、そのコンテンツの多くは、広範に見られることはないだろう。というのも、選び出せないくらい多くになるだろうから。そうしたコンテンツは、ロドニー・キングのビデオのようなインパクトがないと、広範に流通することはないだろう。

ウェブログは、間違いなく主流のジャーナリズムに採用されるに違いない。しかし、大部分のブロガーはジャーナリストとはまったく別の規範を持ち続けるだろう。ニュースを正確に報じる時間やリソースがめったにないブロガーにジャーナリズムの基準を適用するのは非現実的である。私の著作である The Weblog Handbook において、私は倫理的なブロギングを行う基本となる透明性を優先し、公平性と正確性というジャーナリスティックな基準を故意に受け入れていない。メディアの参加者として、我々は分析、補完すべき団体の目的を模倣するのではなく、主流メディアの外側で、より強力で、より価値のある活動を行っているのだ。

rebecca blood
july 2003


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日本語訳: yomoyomo (E-mail: ymgrtq at yamdas dot org)