昨年秋、そして先月、大人数のオフ会のようなものに参加する機会があった。それまではネット上で知りあった人と1対1で会うことはあったが、10名を越える大人数のオフ会の参加経験はなかった。というか、そういうのには参加しないだろうと思っていた。ワタシは馴れ合いや仲良しグループが大嫌いで……などと強面を気取りたいところだが、単に人見知りの激しいヘンクツ者だということです。
そうしたオフ会に出て最も多く聞かれたのは、「どうして yomoyomo なんですか?」ということである。軽く五回を越えるだろう。
この質問には二つ意味があって、一つはどうして yomoyomo というハンドル名にしたのかということ、もう一つはどうして『Wiki Way』の訳者名を yomoyomo というふざけたクレジットにしたのかということがある。
前者に関してはこれまで何度も書いてきていることであるが、早い話やゆよ記念財団で見たある文章から名前をもらったということである。そのチョイスからも、YAMDAS Project を「笑える雑文サイト」にする意思が分かると思う。しかし、現実はこんなことになってしまった。やゆよさんに申し訳ない。
何度も何度も聞かれるうちにこっちも慣れてきて、スラスラといきさつを喋れるようになったのはいいのだが、この間など「いやー、やゆよ記念財団の文章を見た瞬間、神の啓示を受けまして…」と適当に口走ったところで自分が結城浩さんに話していることに気付き、「な、何ということをワタシは言ってるんだ! あ”ー!!」と絶叫していた。
軽率に「神」という言葉を持ち出してはいけないということだが、何かしらピンと来るところがあったのは事実である。諸事情によりはじめからハンドル名を使うことに決めていたし、作るのはプッと笑える雑文サイト(のつもり)だったから、yomoyomo で全然違和感はなかった。
しかし、残念なことに今は、ある。サイトを始めたとき、まさかそれが5年目に入るとは思わなかった。メールなど文字ベースでそう名乗るのは構わないのだが、声に出されるとかなりダメージがある。これもオフ会で痛感したことである。勝手なものだ。
それなら他の名前に改名したらどうか。例えば Sledge Hammer Web の YaKu さんが、そう名乗ることの恥ずかしさに耐え切れなくなり前川やくに改名したように。それに倣うとワタシの場合、「山田よもお」になるのだろうか(実際、これが本名だと思っている人が本当にいる!)。
そこで、最初に書いた質問の二番目の意味が問題になる。違和感を覚えるなら、どうして yomoyomo を訳者名にしたのか。書籍として残るものなのに。
実はこれはアクシデントのようなものなのだ。
作業が佳境に入ったあたりだったと思うが、ワタシは編集長に訳者名のことで質問メールを投げた。訳者名は yomoyomo でよいのか、と。実はこのとき、当然「そりゃあまずいでしょうね」という答えが返ってくることを予期しており、ペンネームまで用意していた。
しかし、編集長の答えは「全然オッケー」というもので、当方の思惑は空を切る形となった。「いえいえ、やはりまずいっすよ。実は…」と話を持っていけばよいではないかと今になっては思うのだが、あの翻訳作業は尋常でない精神状態で行われていたため気持ちに余裕がまったくなかった。さらにメールを出す気力が湧かず、うやむやのうち訳者名が yomoyomo になっていたというのがホントのところである。ワタシの責任ですな。
翻訳中の有様については今だから書けることであるが、そのときのことはいつか文章にまとめたいと思っている。実際 @Random でショートプレゼンという話があったとき、その話を延々してやろうと思ったくらいだが、さすがにそういうわけにはいかなかった。文章化する日は来るのだろうか。
閑話休題。
改名の話だが、今でも結構真剣に考えている。しかし、いろいろしがらみがあり、また一度 yomoyomo という名前で訳書まで出してしまったのに変えるのはどうか、と生来のめんどくさがりな性分がそれにストップをかけている。それに声に出して呼ばれるのは恥ずかしいが、文字だけ見るのは嫌ではない。これは自分でも不思議に思うが、でも特定のメーリングリストにメール投げるときは自分がバカに思えるときもある。多分他の人達もそう思っているだろう(被害妄想症)。
というわけで約半年後、ワタシが30になるあたりであたためていた名前を開陳するかもしれない。そのとき忙しいかめんどくさければやらないかもしれない。それが今回の文章の結論である(になってないって!)。