yomoyomoの読書記録(2001年下半期)


植松黎「毒草を食べてみた」(文春新書)

 僕が本書に注目したのは、まず何よりこの本の著者が、「ポケット・ジョーク」シリーズの編者である植松黎さんだったからだ。角川から出ている「ポケット・ジョーク」シリーズは、中学生のときにほぼ全冊買ってあり、今も実家の僕の部屋の枕元に並べてある。「ほぼ全冊」とあるのは、セックスを中心的に扱ったものは、さすがに親の目をはばかったからである。

 「ポケット・ジョーク」の編者が、毒草関係の本を書かれていることはまったく予想もしておらず面白く思ったし、また当方は以前よりドラッグ関係を研究課題(笑)の一つにしており、「毒草」という方向性から、そっち方面の知見が得られることを期待して、読んでみた。

 本書には44種の毒草が取り上げられているが、ドラッグの興味から想像がつくアサ、コカ、ケシ、ペヨーテといったものや、事件などで一般にも知られるトリカブト、チョウセンアサガオなどの他にも、よく名前を知られた植物に毒草が多いのに驚いた。これは僕が無知なだけなのかもしれないが、スイトピーやスズランやスイセンなどまで毒草の範疇に入るなんて思わなかったよ。つまりは花の美しさにだまされていたわけだが、特にスズランは毒がすべての部位に含まれ、スズランを活けていた花瓶の水を飲んだだけで死ぬこともあるというのだから恐ろしい。

 つまり毒草は、我々の生活から縁遠い、「物好きが山菜のつもりで食っちまってビンゴ!」レベルの関わり合いしかないものではないのだ。もちろん本書にもそういった事例は多く出てくる。しかし、僕が考えていたよりも、それらはずっと僕の生活の近くにあるものだった。

 それは欧米の人間がクリスマスの時期にもてはやすポインセチア、クリスマスローズのいずれもが毒草であるという皮肉であったり、大気汚染に強いという理由で高速道路の脇に植えられる夾竹桃はアレキサンダー大王の軍隊をも打ち倒した毒草であり、高速道路で火事が起き、猛毒であり煙を出したらどうすんだ、という意外な身近さである。

 本書は格別に面白いというものではないのだけど、結果として毒草を通して現代人の愚かしさを平易に説く形になっている。個人的には、媚薬伝説の真相について面白い説を出すマンドレーク、ソクラテスの処刑を植物学の観点から読み解くドクニンジン、そしてベトナムで「葉っぱ三枚で死ねる」伝説で知られたゲルセミウム・エレガンスの章が特に楽しく読めた。

 余談であるが、マンドレーク(Mandrake)は Linux のディストリビューションの名称にもなっていて、とある日本のニュース記事では「まんだらけ」と表記されたりもしたが(おいおい)、西欧人はこの名前から催淫剤を想起すると思われる。たまに BSD のデーモン君がどうこうという話が出るが、マンドレークもかなりヤバイように思うのだが。この単語を英辞郎で検索すると、「肛門強姦者」という意味まであったりするし……


近藤誠ほか「私は臓器を提供しない」(洋泉社)

 臓器移植に反対の立場を採る各界の論者が文章を集めた本。

 これに関しては、僕は過去対談で二度話題にしているのだが(その一その二)、いずれも臓器移植法案が成立して生体間臓器移植が行われた直後のもので、その当時僕はその方面の文献は不勉強にもほとんど読んでおらず(それは今もですが)、ほとんど直感レベルで違和感を表明したわけだが、本書に収録された近藤誠(一般には「患者よ、ガンと闘うな」などの著作で有名)を読むと、そこで挙げられた問題点が一通り述べられていて驚いた。こんなことに喜んでもしょうがないのだが、自分の直感は間違ってなかったと確信した。

 僕が挙げた問題点というのは、

  1. 臓器移植が無批判に推進されることで、脳死に至るまでの救急医療が衰退してしまう
  2. 片方の患者のためにもう片方の患者の命が犠牲になるということは、命に優劣が存在してしまう。それを医師が決めるのが許されるのか
  3. 効率性を突き詰めると、死刑囚から臓器を取ってしまえという極端なことになる。そうでなくても、臓器をどんどん取っても生き長らえさせるような形で医療が変態していくのではないか
  4. 現実の臓器移植例での脳死判定が杜撰すぎる
  5. 臓器移植したところで患者の余命は変わらない、もしくは寧ろ短くなるのでは
  6. まだ実験レベルの医療を、他人の身体を利用し、その家族に大変な心労をかけてまでやる価値があるのか

 といったところだが、本書の「医者の立場から」の章に収録された三人の医師の文章を読むと、以上の問題点に対し、非常に暗い認識しか持てなくなる、というか上の 1 と 4 と 5 に関してはかなり深刻だぞ。

 ただ本書は編集部による前書きにあるように、大枠での立場が同じな人達の文章を集めただけで、その主張は当然ながら一枚岩ではない。前述の「医者の立場から」の他に、「思想者の立場から」「仏教者の立場から」「ジャーナリスト・ライターの立場から」と章立てされているのだが、この三つの中で医者の文章と内容的に同じレベルにあるのは、宮崎哲哉の文章だけであった(どうして彼の文章が「仏教者の立場から」に分類されてるんだ?)。

 吉本隆明の談話は単に彼がボケ老人であるということを確認するだけのものであるし、中野翠の文章は本人が書く通りの素人くさい、どうでもよいような文章であるし、平澤正夫など、なかなか良いところを突きながらもヒステリックな筆致が見え隠れし、いささか鼻白んでしまう。

 まだまだ我々も勉強し、理論武装する必要があるということだろう。宮崎哲哉が書くように、臓器移植推進派の倫理は、欧米並みに急激に低下している(逆ではない)。なし崩し的にレシピエントの適用範囲が拡大されていくというのは、決して妄想レベルの話ではない。橋本克彦が正しく指摘するように、現在施行されている臓器移植法においても、家族の意思を軽視できる余地は、条文にしっかり織り込まれているのだ。

 しかし、世界的な視点で見ると、現状は臓器移植そのものをどうこう言うレベルから、臓器の商品化は一歩進んだ段階まできている。そこまで理解して自分の臓器移植観を修正しなければならないのだが、それは本書の宮崎哲哉の文章にも引き合いに出されている栗屋剛の「人体部品ビジネス」(講談社選書メチエ)という、ぶっ飛んでいて、面白い本を今読んでいるところなので、その書評で行うことになると思う。


カート・ヴォネガット・ジュニア「猫のゆりかご」(ハヤカワ文庫)

 カート・ヴォネガットの作品は、以前に「モンキーハウスへようこそ」という短編集を読んでいたのだが、そこまでピンとはこなかった。

 そこで久方ぶりに一冊買ってみて読んだのだが、これはヴォネガットの出世作になった作品だけあって面白かった。地球の破滅もの、という題材はこれまでたくさんのSF作家が嫌というほど扱ってきたものだろうし、ヴォネガットもこれ以外にも同種の作品をいくつか書いているのだろうが、この作品はそれがカリブ海の架空の島から思いもよらない形で起こるところがユニークで……などと書きながら、その実当方はSFに関しては無知に近いので、本作が「地球の破滅もの」というジャンル(?)においてどういう位置付けの作品かは分からんのだけど。そもそも、作者は自分の作品がSFにジャンル分けされるのをひどく嫌っているのだしね。

 この作品から、エピソードをこまぎれにし、積み重ねるという手法がとられていて、その断片性が、文体の潔さと強度に貢献している。また、本作に登場するボコノン教という架空の宗教も、おおらかなユーモアを生み出している(ディックのSF的思弁によりかかったつぎはぎだらけの神学とは違う)。

 というわけで、本作は好意的に読むことはできた。が、どこか肌に合わないものを微妙に感じたのも確かで、それが何であるかはよく分からない。まあ、もう一冊はヴォネガットの本を読むだろうから、そのときには鈍いワタシにもそこらへんの理由が掴めるだろう。


宮部みゆき「地下街の雨」(集英社文庫)

 これも女友達が貸してくれた本なのであるが、この本が当方にとってのベストセラー作家宮部みゆきの初体験となったわけだ。

 本書がそれに適しているかは当然ながら僕には分からないのだが、「勝ち逃げ」が短編小説のお手本のような的確な構成を持った作品であるのに感心したのを除けば、特にここに書く感想はない。


車谷長吉「鹽壷の匙」(新潮文庫)

 以前から気になっていたのだが、車谷長吉の本を読むのは本書がはじめてである。三島由紀夫文学賞を受賞した短編集であり、筒井康隆が特に推していたので読んでみたのだが、それほどのもんかね、というのが正直な感想である。

 僕自身は私小説自体あまり好きでない、と言いつつかなりの数の私小説を読んできた。日本文学を読んでいると自然にそうなってしまうのだが、それが私小説であるという理由で排するということはない。けれども、「反時代的毒虫」などと力んでみせる割りには、各作品の焦点化が足りないように感じられ、何やらちぐはぐな印象を受けた。本書に収められた六編の短編は、書かれた時期として二十年以上の時間差があるのだが、私小説云々を考えずに読むことのできる、初期の二作品の方に、小説としての求心力を感じるのは皮肉である(それらにしても大した作品だとは思わないが)。

 吉本隆明の解説を読み、ようやく作者が書こうとする「悪」の構造がおぼろげながら見えてきて納得できたが、当然ながらそれでも本書の評価が覆ることはなかった。

 筒井康隆はこれを「厳しい文学」と書いた。確かにそうかもしれない。「甘い文学」があるとしたら、それは間違いなくロクでもない代物に違いない。しかし反対に、それが「厳しい文学」だからといって、そのままそれが「優れた文学」であるとは言えないのに、本書を読んで気付かされた。


シェイクスピア「マクベス」(新潮文庫)

 シェイクスピアの四大悲劇の一つ。作品のサイズとしては、その中で最も短いのではないだろうか。作品自体、マクベスの大逆からその最期まで、極めて直線的に進んでいくので、うっかりしているとあっという間に読み終わってしまう感じである。読者として、空間性を意識し、その内で音楽を響かせるように読まないと、古典戯曲はつまらないだけなので注意しないと。ま、ワタシが鈍いということなのですが。

 しかし、逆に言うとその短い尺の中に、悲劇が悲劇たる本質が凝縮されている。新潮文庫版の訳者である福田恆存が「やや退屈」と評する国王の資格についての問答まで、僕は楽しんで読んだ。

 この戯曲が保つ現代性については、その福田恆存による「解題」が優れた手引きとなっている。「ハムレット」との対比で語られる「自我の崩壊」の問題を読むと、この破滅への一本道をただ突き進んでいるようなマクベスの、ハムレットと類縁を持ちながら決定的に異なる現代性、ただ必然としか読めない流れの中に、現代人と共通する実存の揺らぎを読み取ることができるのだ。


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初出公開: 2001年07月09日、 最終更新日: 2002年06月17日
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