今一度臓器移植から現代医学を問い直す
yomoyomo(技術者の端くれ、以下Y)と海坊主(医者の卵、以下海)の与太話。1999年4月3日電話にて。
Y:あの臓器移植の対談ね、あれ評判よかったよ。
海:へえーっ。そうなんだ。
Y:ていうかさ、「対談しか読まない」とぬかす友達もいるぐらいだから。さすがにそれ言われたときは、一体自分は何のために必死こいて文章書いてんだって死にたくなったけど。
海:ははは、で、どういう部分に評判がよかったの?
Y:うん、メールくれた友人だけど、まず「前回との内容の差にビックリです」だってよ。
海:ぶははは。
Y:確かにな。その人はさ、一年近く前からドナーカード持ってて、脳死判定後は全ての臓器を提供します、という選択をしてるんだ。「はっきり言って、提供する意志のない人の気持ちがわからなかったんですが、 yomoyomo さんの意見を読んで、なるほどなぁと思いました」と書いてた。まあ、その人はある意味素直に臓器移植の善意を信じているんだね。
海:うん、あんまり・・・悪意はないんだよ。提供したい、という人に何か悪意があるというのではない。それが言いたいだけなのだけど。
Y:あと他の人だと、「一人の人が死んで5人が助かったのだから凄いことだけど、そんな技術を持っていなければ、難病だって運命として受け入れられるだろうに、と、つい思ってしまいますね」という意見があった。
海:ふーん。
Y:後ね、これさっきの友達が教えてくれたんだけど、朝日新聞に載った黒崎政男という(東京女子大学文理学部哲学科)大学助教授の意見なんだけど、「移植後、免疫抑制剤で拒絶反応を抑えながら、かつ、感染症対策も施すという行為は、果たして医療なのだろうか、それとも(冷たい言い方かもしれないが)実験なのだろうか」とね。つまり臓器移植を「排除されなければならない<他なるもの>によって、<自己>が維持されるという根源的な矛盾を含んだ技術」と捉えているわけだ。これは僕の意見に合致するところがある。それでね、「死」が決断と選択の領域に入りつつあること、また既に引き返すことのできない地点にいることを懸念しているんだけど、これは脳死状態になったときに予め死を選べないことを問題と考える君の意見に符合するんじゃないかい。
海:あーん、すごいなその意見は。尊敬するな。医者じゃない意見、という感じはする。
Y:NHK の「クローズアップ現代」でも今回の臓器移植が採り上げられてたけど、君がさ「非常にオソマツなオペ室」とか言ってたじゃない。その現場は切迫というか、目茶苦茶だったようだね。第一、違法というか、脳死判定の順番間違っていたじゃない。それにさ、二度目の脳死判定で提供者は脳死の判定が出たけどさ、じゃあ一回目と二回目の判定の間に彼は脳死になったのか、というね。そんなわけはないんだ。
海:だよ。
Y:現場で担当医は提供者の家族に、「(臓器摘出を)止めましょうか」と言ったらしいね。
海:確かにもう「医療」という感じじゃないな。
Y:こないだ長崎でベンジャミン[註1]とその話になったときに、「止めますか、って言われて、はい止めますって言えるかよ」と彼が言っててね、その通りだよ。
海:うん、さっき紹介した話は哲学の世界になるよね。どうしても医療現場の意見とは違うよね。結局医者というのは手段を選ばないというか、患者助けるためなら何でもやる、というところがあるからね。例えそれが実験台だろうが何だろうが。その辺の意識が医者には欠けてるね。
Y:これもベンジャミンが言ってたんだけど、現時点では、臓器移植しない方がした方より長生きするんじゃないか、というね。統計的に見ると。
海:ああ、そりゃそうだよ。うーん、いいとこ突くね、ベンジャミン君! えーと、臓器によっては違うけど・・・腎臓とかは大して変わらない筈。確かによく聞く話としては、臓器移植しても細胞が壊死してしまう場合があるんだよね。
Y:そういうリスクのある方法はさ、黒崎助教授が言うようにさ、実験じゃないか・・・
海:(間髪入れず)実験だよ。
Y:(むっとして)君がそういう風に言うな!
海:いや、だから可能性を追求した実験ということだよ。
Y:可能性を追求するのはいいんだけど、それをこんなに(提供者側に)大変な決断をさせてまでやる価値があるのか? 全部動物実験でやれ、とは言わないんだよ。人体での実験も必要だろう。でも、そうした統計的な現実をみんな意外に知らないじゃない、僕も知らなかった。移植をきれいにできたからってだから何なんだ、というね。それで移植しないより長生きできなければ意味がない。
海:でも、統計的にというのも比較する対象がないから何とも言えないんだよ。こないだ心臓移植をアメリカで受けた人がいたけど、あれなんか移植しないと生きられないケースだよ。心臓や肝臓なんかは致命的だからさ。そうしたところは移植さえうまくいけば長生きできるよ。
Y:正直言って今回のことで臓器移植がホント嫌になったよ。
海:でも移植一つ一つについては色々あるけどさ、現場に近い人間からすると・・・患者に一年でも多く生きて欲しいと思うわけじゃない。余命一年が移植することで二年になるとしたら、そちらに賭けたくなるじゃない・・・二年が三ヶ月になる可能性もあるけどね。
Y:ただそれについてどこまでインフォームド・コンセントがあるかということはあるね。「移植しましょう」という医者の言葉の背後にあるものがちゃんと患者側に分かっているのか、という。
海:ただ現在の選考基準からすれば、(臓器が提供される側は)移植されなければ生きれない、という患者さんだから。
Y:Newsweek日本版でも今回の臓器移植が取り上げられていた[註2]けど、臓器摘出に関してはヨーロッパではノーと言わなければイエス、という方式みたいね、日本とは逆に。ただイギリスは違うみたいだけど。
海:イギリスはプロテスタントだから?
Y:うーん、イギリスは英国国教会じゃないか? ただ新聞での主張に「死にゆく患者が人体パーツの供給源とみなされていると人々が感じれば、移植プログラムへの支持は一夜にして崩れるだろう」というのがあって、これはその通りだね。そういう風に医者が見ているなんて許せない。
海:ただ医学の世界はアメリカ中心なんだよね。研究にしろ何にしろ。遅れをとっているから、臨床でなく研究でそれに携わる人たちは本当に貪欲に取り組んでいるんだよ・・・だから、患者の意志とはかけ離れているのかもしれない。
Y:ただこれは以前文章に書いたんだけど、以前なら成すすべなく死に至ってたのを、身体を冷やすことで脳死に至るのを防ぐという技術があるんだよ。そこでね、「脳死=人の死 -> 臓器提供」となった場合、そうした脳死に至るまでに人を救う技術は衰退してしまうんだ。絶対歪みが出るんだな。脳死になったかどうか、という判定は厳密に行われるだろう。以前のように医者の一存で勝手に判定されることはないだろう。でもね、脳死を防ぐ技術がなくなるね。片方が進歩することでもう片方が疎外されるというのはそういうことだよ。僕はそれに嫌悪感を覚える。
海:うーん、そうだよな。でもな、それって今の技術では難しいんじゃないか?
Y:でもこの低体温療法ってのは実際に脳の細胞が死にいたるのを(一定レベル)防げるみたい。
海:でもそれって確立された治療法なのか? 単に細胞の周期を遅らせているだけなんだろ?
Y:低体温療法のアイデアはかなり昔からあったらしいんだけど、殆ど見捨てられていた療法みたい。NHK の番組を見る限りではかなりの成果が挙げているようだけど。
海:脳の細胞がアポトーシス[註3]に至るのを遅らせているのにすぎないのなら、延命治療だよね。
Y:うーん、「延命治療」という言葉も気を付けて使わないといけないと思うけど。
海:俺の理解した範囲では、単に遅らせているだけだからね。でも、その間に何かできるなら別だけど。
Y:ところで今ね、NetScience Interview Mail というメールサービスを購読してるんだけどさ。
海:それって無料?
Y:うん、無料。バックナンバーは Web で見れる。これはね、森山和道という人が色んな科学分野の先端の人にインタビューしてるんだよ。僕が面白いと思ったのは、そういう人たちは、「どこが分かってないか」ということをちゃんと分かっているんだ。
海:そう! それだよ。学生と教授の違いはそれなんだ。分かってないということをきっちり分かってないとその先進まないもん。
Y:うん、それでね今インタビューされてる人が、深尾憲二朗というてんかんの専門家なんだけど(国立療養所 静岡東病院 てんかんセンター)、そこで面白い対話[註4]があって、森山さんが疑問に思ったのが、器質的な精神病とそうでない精神病がある、という本の記述でね。じゃあ、器質的でない精神病とは何なのか、物質的な基盤のないものがありうるのか、と尋ねるわけ。そこで先生は、「あなたが唯物論者だからですよ」と答えるんだ。そして続けるのは、「精神医学っていうのは今でも唯物論になってないんです」ということなんだ。それが現在の精神病の分類、つまり内因性、外因性、心因性という三つに分類されている[註5]ことに現れているんじゃないか。内因性と心因性の区別があやふやになっている。
海:ストレスについて俺が学んだのは・・・下垂体から副腎・・・でステロイドが出るんよ。ステロイドが免疫を抑制してしまうんだ。それが色々な疾患につながるんだけど、俺はその三つの分類が納得いかないな。
Y:また先生が言うには「よくてんかんを診ている医者でも、「器質的な異常はない」とか言うんです」ってね。でもそれって時代で変わるんだな。一昔 CT で分からなかったことが MRI で見えるようになり、それも年々強力になっている。つまりその時点での見解なのだから、医者も「分かってない」ということを認めて欲しいんだよ。
海:うん、そりゃそうだね。
Y:僕も「名医」という言葉を使ったけど、今はある種魔術的なところ、唯物論に納まらないところに「名医」という言葉が使われているんだよ。
海:でもさ、それはさ患者が見るいい医者と、医者が見るいい医者が違うのと似たとこがあるしさ。だって分かってないことを分かってないって言えないもん、医者は。
Y:確かに全部言ってしまうと患者は耐えられないだろうけどね。でも、医者自身もそうしたところ(患者の無知)を利用してるんだよ。何しろ訳もなく先生なんて呼ばれる職業だし。
海:それも確かにそうだね。
Y:医学というもっとも唯物論的な領域が、あっさり怪しげな東洋医学やトンデモ科学につけこまれてしまうのは、現代医学の方にも責任があると思うんだ。さっき言った患者から事実を隠すやり方を使っているからこそつけこまれるんじゃないのかな。どうだい、今回は結構いい話が取れたんじゃないかい?
[註1] yomoyomo、海坊主とは高校時代の同級生。yomoyomo は帰省して彼に会うたびに YAMDAS に加わるようお願いするのだが、彼は色々と理屈をつけて同意しない。2000年になってようやく彼と対談をやることができた。
[註2] 1999年3月31日号 p50-51「ノーと言わなければイエス」。このあと引用される文章は、同記事中の英国医師会倫理委員会のマイケル・ウィルクスの書いたもの。
[註3] 遺伝子に支配された細胞死のことで、具体的な例として、イモムシ -> サナギ -> チョウといった変態の過程において、不要になった細胞が失われる現象があげられる。今回の対談の文脈においては、「細胞の自殺」と考えてよい(海坊主によると、適切な日本語訳はない、とのこと)。因みに、火傷などの外的刺激による細胞の突然死はネクローシス(壊死)。
[註5] 内因性の精神疾患とは躁鬱病と精神分裂病のこと(昔はてんかんもこれに含めれ「三大精神病」と呼ばれた)。外因性とは、事故による頭部損傷、薬物、梅毒によるもの。心因性とは、社会的ストレスに神経症などのこと。海坊主は「内因性」を遺伝子疾患に帰着させることで再定義可能、と考えているようだ。