はっきり言って目茶苦茶面白い本である。コンピュータ業界に属する人なら読んだ人も多いだろうが、ソフトウェア開発の現場と無縁な生活を送っている人にもご一読をおすすめする。僕は寝る前の十分程度に読み進めようとしたのだが、それが毎回半時間になってしまった。面白くて止まらなかったのだ。
プログラマーとして恥ずかしい限りであるが、僕は1994年に翻訳が出たこの本を2000年の今まで未読であった。読もうと思ったきっかけは、Windows 2000 の発売だった。僕自身それに関する文章を書いたが、Windows 2000 に対し、多くの人が本書を引き合いに出していた。ソフトウェアの品質の問題・開発スタイルについて分析した論文・書籍は多くあり、「人月の神話」「プログラミングの心理学」「伽藍とバザール」など名作も数あれど、その現場の苦闘をドキュメントしたものとしては、現在に至るまで本書以上のものはそうないだろうし、未だにその内容の本質は古びていない。
ストーリーとしては、DEC において名機 VAX コンピュータの開発で名を挙げたものの、その後閑職に追いやられていたスター・プログラマーであるデビッド・カトラーを、ビル・ゲイツが直々にマイクロソフトに引き抜き、Windows NT を完成させるまでのノンフィクションなのだが、様々な角度から読み楽しむのにたえうる魅力を持った書物たりえている。
まずは何より本書の主人公たるデビッド・カトラーその人のインパクトがある。この超人的でしかも偏向した人物に対する印象は、見る人により感じ方は異なるだろう。僕なんか絶対彼の下では仕事できないだろうな。というか彼の方から真っ先に見捨てられるか。
彼はただの偉人・偶像ではない。実際問題、彼は NT プロジェクトにおいても重大なミスを幾つか犯している。一例をあげれば NT におけるグラフィック部分の軽視だが、これなどカトラー自身の嗜好性がはっきり影響してしまっている。他にも開発に出遅れた重要部分がいくつかあり、それはカトラーが自分の責任の範囲が大きくなり過ぎるのを嫌ったためともいえる(それは突き詰めれば製品の品質のためであり、彼は単純な権力志向の独裁者タイプでもない)。
本書の副題は「ビル・ゲイツの野望を担った男達」であるのだが、それは間違っている。紛れもなく NT は第一にカトラーの野望のためのものだった。勿論巨大企業の巨大プロジェクトが一個人だけのために存在する訳はない。しかし、そう形容したくなるだけの力量を誇示できたソフトウェア技術者はカトラーの他にはそういなかったし、それを異例ずくめの度量でもってサポートした企業というのも(その当時は)マイクロソフト以外にはありえなかった。
著者のマイクロソフトに対するスタンスがフェアな部類に入るのも本書に対する印象を良くしている。DOS の開発に関して、「今世紀最大の窃盗」という表現をちゃんと使っていることで、本書がその前提条件を満たしていることが分かる。
OS/2 に対する記述に対しては腹を立てる人もいるだろうが、僕はこの本が書かれた当時の OS/2 にまつわる状況を殆ど知らないので、本書での記述が正しいかどうかは判断できない。マイクロソフトが OS/2 をサポートしながら同時にそれに見切りをつけ、裏切るところ(それを奴らはまんまとやりおおした!)の流れところなどマイクロソフトが見せた一世一代の芝居の舞台裏が分かる。本書における OS/2 の技術的な評価が正しいかどうかはともかくとして、当時の IBM の技術的凋落ぶりは激しかったのは確かである。そして、マイクロソフトが Windows を売るために OS/2 に対してユーザの声を装った陰険な FUD 攻勢をかけたこともまたしかり。
また本書は企業におけるソフトウェア開発の現実、企業文化のぶつかり合い、そして何より企業の中の人間同士の協調と対立についても優れたドキュメント足り得ている。
如何にもコンピュータおたく然とした「マイクロソフティー」連とカトラーらの DEC 部隊の軋轢は非常に分かり易い構図を見せてくれるし、カトラーを巡る上司部下の関係性の描写のみならず、男性社会であるソフトウェア開発現場における女性技術者の奮闘など示唆的な内容も含まれる。
やはりカトラー、ポール・マリッツ、スティーブ・バルマーといったマイクロソフトの重役のみならず、当時の新入社員も含む現場のプログラマー、テスターに至るまで、ビル・ゲイツ以外の本書の登場人物全員から詳細な証言を得ているのが本書の内容を非常に厚みのあるものにしている。それぞれの仕事内容のみならず、それぞれの関係性(テスターの地位についてちゃんと記述しているところなど)を把握できたものになっている。
でもよくここまで証言を取れたものだ。「謝辞」の中に、マイクロソフトが本書の内容について検閲を加えていないこと、そして(NT 総責任者の)ポール・マリッツが取材に協力した社員に懲罰を加えないことを約束したことが書かれているが、思えば司法省との裁判で浮き彫りになってしまった、マイクロソフト社員の軽率な「口の軽さ」というのも社風だったのだな(笑)。
しかし、NT を開発した当時から余りにも時が流れてしまった(五年程度なのに!)。
本書の登場人物についても、マイクロソフトの CEO はゲイツからバルマーに変わったし、ネイサン・ミルボルトのようにバルマーから会社を追われた人間もいれば、当のカトラーのようにリタイアしつつある人間もいる。
本書についての感想から話がずれるが、そういう意味でポール・マリッツは実はすごく偉大なのではないか。未だに燃え尽きもせずマイクロソフトに尽くし続けている(司法省との裁判に駆り出された姿をみると、どうしてもそうした前時代的な表現を使いたくなる)。本書にもカトラーの超絶的な無礼さに対して飽くまで大人の対応をするマリッツの姿が描かれているが、激昂状態のゲイツに対し、おだやかに諭すことのできるのはマリッツぐらいしかいないというのもよく知られた話である。名誉の勲章としてミスター・マイクロソフトの称号を与えられるべきなのは、実はマリッツではないのだろうか(バルマーは技術者ではない。ついでに書くならゲイツも)(後記:そのマリッツも辞職してしまった)。
だけどね、僕が本書を読み、心からシンパシーを感じるのは実はそうした会社の中枢に位置する幹部達ではないのだ。
それは NT 開発に入れ込む過程で友人・恋人を失い、家庭が崩壊し、私生活そのものを失っていくプログラマー達の姿である。そこまでして人生を切りつめないと成功はありえないのだ(断言)。彼らはそのための代償を払い成功を得たのだが、その姿を僕は嗤う気は少しもなく、ある意味では僕の願望ですらある(でもワタシには耐えきれんだろうな)。彼らも柳下毅一郎さんが勧める「趣味を職業に」した人達なのかもしれない。しかし、それでもやはり彼らの姿はどうしても悲しくもある。
更に書くと、僕は成功を手にすることなく会社を去っていった人間に更に注目してしまう。これは僕自身が落伍者だからだろう。本書に登場する、NT 完成間近になって脱落したテスターは、激務にたえかね逃避先を自分が経営するコインランドリーに見出す。彼は上司の懇願も聞き入れず会社を去るのだが、そのとき二万五千ドルの株式オプションを放棄すらしている。そこまでして辞めた先がコインランドリー! タチの悪いジョークのようでもあるが、追いつめられた技術者の精神状態というのは僕にも想像がつく。
それはウォルト・ムーアについての描写に凝縮されている。有能なプログラマーであるにもかかわらずやる気を失ってしまった彼は、一日中ゲームにしか没頭できなくなり、やがてはクビになるのだが、社外に友人のいなくなった彼は話し相手がほしくて、バレエ団のチケットを売りたくて声をかけてきた女性に対し、いっしょに見に行ってくれるなら何枚でもチケットを買う、と答える。この件は読んでいて胸が詰まった。
本当はソフトウェア開発と品質についての蘊蓄も書きたかったのだが、カトラー自身の言葉を引用して終わりにしたい。単純明快であるが、これがどうしようもなく困難なのだ。それは現在の(過去でもいいのだが)マイクロソフトの製品を見れば・・・などと責任転嫁するのはやめよう。僕自身が書くコードを見ても自分で分かることだ。
G・ワインバーグが正確に指摘するとおり、ソフトウェアの品質というのは極めて政治的なものなのだ。そんなもんが完全であるはずがない。本書はそれに挑んだ人達についてのノンフィクションである。
「第一に、品質は、全員の信念でなければならない。トップの経営者から、いちばん下の助手まで、全員の信念でなければならない。経営陣の風向きをいつも気にする気弱な管理者に,用はない。(中略)品質を守るには勇気が必要なこともある。わたしのプロジェクトのメンバーはだれでも、そのライセンスを持っている。不完全なまま出荷したいというばかがいれば、くたばりやがれと言ってやる」