安部公房は日本人の作家という括りで言えば、上から五人に入るくらい好きである(残り四人は、坂口安吾、谷崎潤一郎、筒井康隆、村上龍、かな)。そして、安部公房は「日本人の作家」などという括りに納まらない本当の意味での国際的な作家である。「第四間氷期」「砂の女」「他人の顔」「箱男」(それより後の小説はやはりパワーダウンと言われても仕方ないかな)「死に急ぐ鯨たち」など彼の作品世界に一貫する不条理感と不気味なまでの論理性が好きで、96年に東京で写真展があったときには、東京出張にかこつけて見に行ったくらいのファンである。
ところが、彼が小説と同じくらい力を注いだ演劇関係にはこれまでノータッチだった。個人的に演劇というものに熱中するチャンスを逃してしまった感じなのだが、安部公房に関してはまずいかな、と今更ながら彼の代表的な戯曲三編が収められた本書を読んでみた。
まず谷崎潤一郎賞を受賞した「友達」(でも谷崎賞って長編小説のための賞じゃなかったっけ)だが、こういう侵入型の話を他でも読んでしまっていたためにそれほど驚きはしなかったが、善意家族の造形などやはり傑作であることは間違いない。
次に「棒になった男」だが、三景からなるこの戯曲で最も楽しめたのは最後の「棒になった男」だった。地獄の男と女のやりとりなど非常にユーモラスだし、観客にベクトルが向けられるラストなんて小説では起こり得ない展開だわな。でもフーテン(!)が「断絶の時代」なんて口にするなんざ、何か悲しくもなる。我々はちーとも進歩しとらんのかな。
そして戯曲版「榎本武揚」。これが一番楽しめた。安部公房が書くのだから、サムライのチャンバラ劇でも単純な倒幕物でもない(そうだったとしても、それはそれで読んでみたい気はするが)。プロローグで榎本の思想性の検証にも思えてそれだけでもなく、その後の牢屋の描写などピカレスク文学の面白さも感じさせながらそれだけでもない。
安部公房の作品で歴史上の偉人が主人公になるなんて恐らくはこの「榎本武揚」だけだろうけど、何でこんなに面白いのか正直僕自身はっきり分からない。実験者としてのニヒリスト(とまで書いていいものかどうかは分からんが)榎本武揚の姿を浮かび上がらせる何とも皮肉な結末も最高だ。
文庫本自体は大学時代に既に大学の生協で購入していた。つまり五年くらい前になるのだが、今まで読む機会を逸していて、同じガルシア=マルケスの本でも確かこれより後に購入した短編集「エレンディラ」を先に読了していた。といってもそれも四年以上前の話だ。
こうしたことをわざわざ書くのは、やはりこうした本は大学生だったときに読んでおいた方がよかったなあ、と読後痛切に思ったからだ。大学生のときが物理的に暇だったから、というのもある。でも時間的な問題だけでなく、少なくとも僕自身に関して言えば本を読む際の粘り腰が当時からすると大部衰えてしまっている。
微妙な反復を経ながら綿々と流れる言葉が喚起するイメージにのることができれば問題はなかったのだろうが、どうしてもそこまで没入できず、「エレンディラ」のような純粋な驚きより孤独で老いた独裁者の生が磁場となった物語としての重力が優るとなると尚更である(こう書くとラテンアメリカ文学にビックリ箱のような安手のマジックしか求めてないようだが)。
確かにこの作品は複数人物による独白という形式を取りながら同時に時間軸、語り手を横断するのだが、全体としては書くべきトピックを一通り書いただけという感じがしてしまうのだ。複数人物が語り出すものの、どうしても最後には独裁者自身の独白が勝ってしまう。そうした意味で、最終章における独裁者の亡き母親への語りかけが本来の語り手にクールに視点が戻って終わるところは気持ちいいのだが、どうせなら独裁者自身の独白がまったく出てこないような章があったってよかったように思うのだけど。
独裁者の造形に関しては文句はないし、女学生だと思って毎日車に引き込んでいたのは皆娼婦だった、といったシーケンスなどブラックユーモアも十分に堪能出来た筈なのだけどねえ。やはり長さが問題なのだろうか。
今年に入って安部公房の戯曲を読み、久方ぶりに彼の世界に再び入っていきたくなった。
「燃えつきた地図」はそうした意味で最良の作品だった。追う者が追われる者となり、探す者が自分を見失う、といういかにもな構造を持ち、癖のある登場人物の造形から、会話、論理展開、風景描写などのディテールに至るまで、本当に彼らしい作品である。変な書き方になるが、「砂の女」よりも安部公房の本質に近いのではないだろうか。
この作品を読めば、作者自身が紹介していた、「作品のディテールがずばぬけて日本的」「地方色が漂白されてしまった抽象」というヨーロッパ人の批評も分かるように思える。確かに安部公房の作品世界というのは地域性は全く感じないが、それなら都会的かと問われるとその言葉も違うように思える。地方色が漂白された、とするとピッタリくるようだ。
ただこの作品の曖昧として終わる結末はどうもいただけない。確かにすっきりと結末がつくべき小説でないのは分かるのだが、最後が弱いためにドナルド・キーンの言う、「日本有数の傑れた小説」には残念ながらなり得ていない。しかし、ファンにしてみれば現在においても大変魅力溢れる小説であるのは間違いない。
あと余談であるが、「ほら貝」のエディトリアルで、「今年のほら貝は文学サイトとして再出発します」という宣言がなされていた。安部公房関係の文章も再び読めそうである。とても楽しみだ。
晶文社の書籍を購入したことのある方ならご存知だと思うが、晶文社の書籍には、「この本の読者なら、次はこちらを読まれては如何でしょう」リストの紙片が入ってくる。当然ここでのリストに入るのは全て晶文社の書籍であって、要は宣伝なのであるが、そのリストが的確なので、「へー、この本は晶文社から出ていたのか」と普段よりも前のめりになる。以前なら一度はそうなっても、記憶力が加速度をつけて衰えている当方は次に本屋に足を運ぶ頃にはそんなことも忘れてしまっていたのだが、ありがたいことに今はオンラインで家からでも書籍が注文できるご時勢だ。また、ここで対象となる本が地方都市では大きな書店で探さないと見つからないような類の本であるから尚更ありがたい。
ここまで書いて気付いたのだが、この種のサービス(宣伝)って、Amazon.com が電子メールで行う「お客様の購入リストから次におすすめする本」サービスに近いのではないだろうか。あの会社のことだ。この方式も早速特許申請しているだろう(後記:この予想は的中した)。げに恐ろしきはビジネスモデル特許。
「SFに何ができるか」と次に書く「数の悪魔」が、山形浩生の「新教養主義宣言」に付いてきた件のリストに載っていたことを書きたかったのだが、ついつい余談で盛り上がってしまった。
僕は今プログラマーとして生活の資を得ているが、ハッカー文化と非常に馴染みの深いSFに全く興味がなかったことは以前にも書いた。というか、大学時代にはハッカー文化にも実は全然興味がなかったのだ。そういう意味で僕は未だに日本の Linux/*BSD 関係者が持つノリの一部が気持ち悪くてしょうがないのだが、それはここではどうでもいいことだ。
問題なのはSFの方だ。「今映画のフィールドで面白いことをやる人間には必ずロック体験がある」みたいなことを渋谷陽一が書いていたが、今活字の分野で面白い活動をしている人間の殆どに間違いなくSFが前提条件としてある。それがワタシのようにほぼ皆無だった人間からすると悔しくてならない。ドストエフスキーの長編を読破したのが無駄だったわけはない。坂口安吾を読んで脳味噌をぶっとばされる程受けた衝撃も嘘ではなかった。だがねえ・・・
この本を読み、その念を強くした。J・G・バラードに対する信頼、カート・ヴォネガット・ジュニアに対する人間的共感、フィリップ・K・ディックに対する苛立ち、といったあたりなど、僕のような初心者にとっても非常に読みどころの多い本だった。もう古典の部類に入るのだろうが、未だに一つの指針足り得ているだろう。
四年前にも読みかけたことのある小説である。大学を卒業し、就職するまでの短い間実家に戻っていた頃のことで、ちょうど祖母が死の床にあり、僕は毎日病院に通いながら、大抵は祖母の傍らで本書を読んで過ごした。だが、就職のため故郷を離れてからは読み継ぐことなくそのままになっていた。八割ほど読んでいたし、心から楽しんで読んだ本であるのに、何故か読み継ごうとしなかった。
頭から読み直したが、青春小説の傑作という四年前感じた印象は変わらなかった。この著者の近作は今では殆ど読まないし、その必要も特には感じないが、本書は再読に耐えうる代表作には違いない。常に仕掛けというか次の展開が用意されている感じで、その展開における登場人物の様々な生死の明滅の描きかたが如何にもこの著者らしい。展開に技量を感じさせるような小説をしばらく読んでなかっただけ尚更それに魅力を感じた。
登場人物が自らの限界を認識する理知性、挫折からくる疲労感(倦怠感ではない)、俗な場面設定・会話からも浮かび上がる品性こそがこの小説を青春小説として輝かせている(やはり最後の場面の柔らかくも苦い描写は格別だ)。あと主人公の家庭を殆ど描かず、寧ろ主人公が他者の家庭に入り込む作品構造のおかげで、私小説的な微温感覚から免れているところはあるだろう。
著者自身あとがきで語る通り、著者は全共闘世代に属するが、世代的なものが当然のごとく排除されているおかげで、この作品は普遍性を保っている。ただこれもまた著者特有の古風な筆致ゆえに今となっては苦笑を禁じ得ない部分もあったりするが、この小説自体約二十年前のものなんだからねえ。
阿部和重が「スポーツの場面を文学で読んだ記憶はないですね。」とかのたまっていたが、はいはい、あなたからすれば宮本輝なんてお文学じゃあないんでしょう。「青が散る」におけるテニスの描写は、当代一の名文家である著者が技巧を凝らさず愚直にその本質を突き詰めようとした本作のハイライトと言える。
昨年末に上平崇仁さんによる「キラキラ」評を読み、僕は途方に暮れてしまった。封印したものを目の前に突きつけられたような気がしたからだ。しかし、いつまでも途方に暮れてもいられないので、早速僕も「キラキラ」 についての文章を書こうとした・・・のだが、例によって才能の問題で半年近く行き詰まっている。そこで気晴らしにこれまで未読だった安達哲の処女作である本作を購入したという次第だ。
作品の舞台となるのは「キラキラ」と同じく高校なのだけど、本作の方が作者の実体験にずっと近いだろう。五人の登場人物もそれほど類型の域を出ないと思うのだが、それは少しも悪いことではない。特に本作はキャラを立たせて一件落着といった類の作品ではない。作品の基点を主人公の受験の失敗に置いているところが面白いし、こういう基点を持つ作品を新人のデビュー作として連載するのは「マガジン」としても異例のことではなかったろうか。作者自身「NHKの『ドラマ人間模様』のような」と形容するような作品である。
この作品にはいくつもの「美しい画」や「カッコイイ台詞」があるのだが、著者の頭にまずそれがあって先走った感じで、それにいたるまでの演繹が足らないように思える。それはまだ作者が未熟だったせいもあるだろうが、後の作品でも明らかになるのだけど、安達哲という人は構築的に作品を組み立てる能力が決定的に欠けた人なのだ。本書は全二巻でまとまっているためその弱点がそれほど露見されてないが、著者独特の変態的な性描写もなく(そりゃそうだ!)、そうした意味では痛し痒しの感もある。
今僕はこの文章を実家で書いている。自室で高校の卒業アルバムを眺めることもできるし、新緑に包まれた母校を訪ねることもできる。しかしそれをやるには僕は余りにも年を取り過ぎた。それなのに僕は「キラキラ」を読み、今更途方に暮れている。もう友人たちは確固たる人生を築いているというのに。僕だってカッコだけはいっぱしに社会人、みたいなフリをしているのに、実際はぼんやりとした後悔の念を引きずったままである。一体何時までこうしているのだろう。
極上のアクション・エンターテイメント、それ以上でも以下でもない。
しかし、「極上」なのだから、それ以下はありえない。なら何故上のようなややこしい書き方をしたのかというと、この作品にアクション・エンターテイメント以上の何かを勝手に求めていたのだろう。先入観というか。
同じようなことを考えている人間もいるようで、各巻に寄せられたエッセイにしても、坂本龍一や渡辺えり子といった、気の利いたことを書きそうな人達が詰まらないことを書いている。
だが、一世を風靡した作品である。もう少しコンパクトにまとめられたはずではないか、後半多用されるコミカルな絵柄は最小限にしてハードに徹してもらいたかった、などの細部への不満はあるが、最後まで惹きつけられる。
アッシュは余りにも魅力的だった。