ふいにイポリートは弾かれたように椅子からとびあがった。
「太陽が昇ったぞ!」彼はきらきらと輝く木立ちの頂に目をとめ、まるで奇蹟ででもあるかのように公爵に指さして示しながら、叫んだ。
「じゃ、きみは昇らないとでも思っていたのですか?」フェルディシチェンコが言葉をはさんだ。
ドストエフスキー『白痴』
さて、どこまで遡ったものだろうか。『デジタル音楽の行方』とまったく関係がないような、2003年2月の @random から話を始めることにする。
あれから三年近くが経つが、関係者のその後もそれぞれである。当時と変わらず精力的に活動している人もいるし、社長になった人もいたと思う。一方で逮捕された人もいるし、当時既に運営側から離れていたとはいえ、その後鬼籍に入った方もいる。当方は関係者でも何でもないのだが、一応ショートプレゼンを行った関係でその場におり、こちらは立派なプレゼンテータを務めた翔泳社のNさんがイベント終了後当方のところに挨拶に来られた。「へ? ワタシですか?」と少々慌てたのを覚えている。そのとき同行していた編集者の方を紹介いただいたのだが、「こちらはレッシグの『コモンズ』などを担当している――」と聞いた時点で、当方は朝の四時に朦朧としながらも、反射的に「アナタがあのロクデナシの担当ですか」と答えていた。
その後思い出した頃にメールのやり取りがあり、そしてさらに後になると、その編集者とやり取りするのがバカメールに変わった。しかし例えば前述の @random にしても、プレゼンをやるNさんがお前も来るかの一言に、深夜から朝にかけてしかも京都で行われるイベントに返事一つで同行したという話を聞いて、なかなかの漢であるのは間違いなさそうである。
今年の春、ワタシは刊行間もない『The Future Of Music』という本を知り興味を覚え、すかさず編集者に以下のメールを送った。
From: yomoyomo Date: Thu, 07 Apr 2005 22:10:13 +0900 To: xxxxxx@shoeisha.co.jp Subject: ねぇ奥様! ねぇ奥様、奥様、聞いてくださる? 『The Future Of Music: Manifesto For The Digital Music Revolution』と いう面白そうな本があるのだけど、奥様のところではこの種の本には興味おあ りかしら。 http://www.futureofmusicbook.com/ http://www.amazon.com/exec/obidos/ASIN/0876390599/ 音楽業界は構造的にもうダメなので、水道のような料金体系にしなきゃみたい なビジネス寄りの本で、いかにもクリエイティブコモンズとかネット音楽配信 とかそっちらへんと親和性のある主張で、レッシグたんも「泣きながら一気に 読みました!」とコメントしてるわよ。 http://blog.japan.cnet.com/lessig/archives/002008.html こんな本は売れんのじゃ、もしくはもうとっくに翻訳権とられとるわ、という ことだったらごめんあそばせ。 (以下略)
これに対する編集者のリプライもワタシ以上にキチガイだったりするのだが、それはさておきこの時点で少なからぬ偶然があった。ちょうど当方がメールを送った日、当の編集者もこの本の出版元に問い合わせをしていたのである。
そうして『The Future Of Music』翻訳刊行に向けた話が始まるのだが、自分が勧めておいて何であるが、正直言って当初はこの本が日本で受け入れられるか懐疑的だった。訳者あとがきにも書いた通り、CCCD の大々的な導入、輸入権問題、そして Winny 作者の逮捕など2004年における(デジタル)音楽を巡って続いた暗いニュースの記憶が強かったため、本書に示されるヴィジョンが絵空事と一蹴されるのではないかと考えたのである。
しかし、ワタシは少なくとも訳本が刊行されるまでには iTunes Music Store も日本でサービス開始していることに賭けた。そしてその賭けはあたったわけだが、アップルの製品/サービスを見るだけでも iTMS に続く iTunes のポッドキャスティング標準対応、iPod nano、そしてビデオ iPod と続いてみると、『デジタル音楽の行方』第一章の最後に未来の機器として紹介されるユニバーサルモバイルデバイス(UMD)すら10年経たずして実現しそうにすら思えるから面白い。
ワタシのように目先の利かない人間からすれば、iTMS が日本で始まるかどうかも賭けに思えるのだが、もっと先が見えている人からすれば今年の展開は自然なものなのだろう。また、そうした大きな流れとして見た場合、本書が2004年における津田大介『だれが「音楽」を殺すのか』、烏賀陽弘道『Jポップとは何か―巨大化する音楽産業』、そして奇しくも原書に先んじて刊行された増田聡・谷口文和『音楽未来形―デジタル時代の音楽文化のゆくえ』という輝かしい仕事に続くものになってほしいというのが訳者の切なる願いである。
『デジタル音楽の行方』という邦題が決まる前、ワタシも意見を求められて、『音楽未来系――だれが「音楽」を生かすのか』を推して却下されたわけだが、「だれが「音楽」を生かすのか」というフレーズは宣伝文句に実際に使われており、それを初めて見たときはさすがに笑ってしまった。
本書の翻訳は基本的に7〜9月の三ヶ月で行ったのだが、本書刊行の話が始まったのが4月であることを考えると、本格的に取り組むまでに少し時間が空いてしまっている。これは基本的に原書の出版元の責任で、翔泳社としてゴーサインが出ているのに原書の出版元からちゃんとした回答をもらえないために悶々とする日々が続いた。気がつくと相手の担当者が辞めていたというアメリカ的な話もあったっけ。
原書の出版元からの返事が遅れようが作業を開始したいのはやまやまだったが、2004年にとある出版社から翻訳の仕事の依頼があり、作業を始めた後になって椅子から転げ落ちそうになる理由で話が流れた経験があり(もちろんその出版社に対してまったくわだかりはない。それどころか、以後良くしていただいてこちらが恐縮するほどだ)、話が確定するまでは動くまいと決めていた。
それでも6月に入ると当方もいささか焦りを感じるようになり、もうとにかく今週末からでも作業を開始しますと編集者に啖呵を切った……途端に不運に見舞われる。交通事故に遭ったのだ。
幸い軽症で済んだが、今回は視力の衰えとともに頚部の痛みに悩ませられながらの作業となった。以前翻訳中に腰痛に悩まされたこともあったが、どうしてオラはこういう不運に見舞われるのだろうと気弱になったりもした。
作業開始前後にトラブルがあったとはいえ、本書の作業は11月中旬まで続き、そして12月初旬に刊行されるというなかなかタイトなスケジュールだった。その中でベストの仕事をするべく努めさせてもらったが、本書の場合クローズドな Wiki を設置し、一部の人たちに翻訳原稿を読んでもらっていた。その顔ぶれについては訳者あとがきに書いた通りだが、それが程良い緊張感につながった。あと個人的に嬉しかったのは、katokt さんを引っ張り込めたことで、氏のチェックを経たことで翻訳原稿の質を上げられたのは間違いない。
以前『Wiki Way』を訳して間もない頃、ある方から「どうして本の翻訳をやったのか?」といったことを聞かれたことがある。そのとき反射的に「もちろん金と虚栄心です」と答えたのだが、それを聞いて相手は少しぎょっとした様子だった。「世界平和のため」とでも答えると思ったのだろうか。その反応が面白かったので、以後同様の質問をされたときには、必ず「もちろん金と虚栄心です」と答えることにしている。
もちろんこれは正しい答えではない。それでは正しい答えは何か。「出版社から依頼があったから」以外にありえない。簡単なことである。『デジタル音楽の行方』に関しては当方の働きかけがあったとはいえ、基本は変わらない。訳者は飽くまで依頼があって訳者になるのだ。
しかし正直に書くと、ともすれば当方自身それを忘れそうになるときがある。言い訳をすれば、当方のような能力の乏しい人間が書籍の翻訳という大事にあたる場合、その仕事が自身の転機になると考えるなど、どうしてもそれに何がしかの意味性を持たせたがる心性が生じるのである。
今回はそうした勝手な期待や思い入れは排し、飽くまでビジネスとしてとらえベストの仕事をするよう心がけた。どのみち結局は全力投球になるわけで翻訳の内容自体は変わらないのだが、ようやく当たり前の認識で書籍翻訳の仕事に取り組めたと思う。
上にも書いた通り、当方にとって書籍の翻訳は紛れもない一大事である。それをやりおおすとなると内的な余裕がなくなり、終いには仕事をする相手としてはたまったものではない悪辣な人間になる。仕事が終わり正気に戻ってみると、迷惑をかけた編集者に顔向けできなくなる。今回はその轍を踏まずに済んだので、担当編集者にその旨を述べさせてもらったのだが、それに対して担当編集者から大意として、「何、自分を卑下して偽善者ぶったことを言っているんだ、この小心者のデブ」というコメントをいただいた。
気にするだけ無駄だったようだ。
一方で今回の仕事については、当方の個人的な事情によりかなり神経質になっていたところがあったのも事実で、上記の担当編集者のコメントにはそれも含まれているのだろうが、仕事も無事終わり、その緊張が解けていくのを感じるのは心地よい感覚である。
翻訳の仕事に何かしらの意味性を仮託すると、その仕事の終了後に抜け殻のようになる危険がある。その陥穽に一番はまったのは『Wiki Way』のときで、あの本の刊行後に受けたダメージからなかなか回復できなかった。かつてロバート・スミスがデヴィッド・ボウイについて語った有名な言葉をもじらせてもらうと、「『Wiki Way』を出した直後に交通事故で死ねばよかった」という自分の中の評価に苦しめられもした。もしかすると『Wiki Way』刊行から三年、今回の仕事を終え、ようやくそこから脱することができるように思う。いや、正確に書けばこれからもそうした評価から逃れることはできないかもしれない。でも、仕方ないじゃないか、とようやく諦められるようになったと思う。
こうした訳者の事情など読者からすればまったくどうでもよいことである。訳者は役者、とは深町真理子の名言であるが、逆に言えば役者が脚本家や監督でないのを忘れてはならない。
ただ役者として語らせてもらうと、『デジタル音楽の行方』は広く読まれる内容をもった本だと素直に思う。また役者として、三冊の優れた書籍に関わることができたのは幸運だったと思う。そして、もう十分ではないかと思う。今回の仕事が最後になっても当方は後悔しないし、実際、最後になると思う。
いつまで続くかは分からない。実際、長くは続かないだろうが、今僕は満ち足りた気持ちである。
しかしそこにはもう新しいものがたりがはじまっている。一人の人間が消え去っていくものがたり、その人間がしだいに忘れ去られ、一つの世界から他の世界にしだいに移って行き、「名声」を求めることを止め、生活に埋もれていくものがたりである。これは新しい作品のテーマになり得るであろうが、――このものがたりはこれで終わった。