パクリの原因と対策


この文章は、正月に「お笑いパソコン日誌」を読んでいて書こうと思い立ったものである。本文中のリンクも「お笑いパソコン日誌」で知ったものが多い。契機を与えてくださった南野さんに心から感謝します。

 ウェブページを見ていて、悔しさを感じるときがある。

 それは自分が書きたいと思っていたネタを、先に誰かに文章にされていたときなどであるが、特に自分が漠然と問題意識を持っていたが、うまく考えがまとまらなかったことについてズバリ核心を突いていたりすると、その書き手を称賛する気持ちがある一方で、動揺も大きい。あの「ヤラレタ!」という感覚はなかなかこたえる。

 何かネタを温めていたものの、このように先に文章化されているのを見かけたとする。これが前述のようなレベルでなくても、冷静に考えて自分が書くよりも優れているだろうと判断する場合には、そのネタを扱うのは一旦止めにする。一度見て、その質を認めた以上、同じ題材を書こうとすればどうしてもそちらに引っ張られるし、引っ張られた以上それを超えるものにならないことは自明だからだ。

 僕が元々 YAMDAS を雑文系サイトにしたいと思って始めたことは前にも書いたが、時事問題に独自の視点で切りこむ文章も書きたいとも思っていた。それができてないのは、書き手の筆力の問題もあるが、この分野については日記サイトの方が対応力があるというのが大きい。僕の非常に狭い巡回範囲ですら優れたサイトがいくつもあるくらいで、それを一通り楽しんで読んでしまうと、そこに自分の文章を新たに差し挟んでみても、あまり意味がなさそうに思えるし。


 それでもそのネタを取り上げたいという場合は、既に読んだ文章を前提にして、別の話題に展開できないか、もしくは別の切り口がないか見つけるしかない。僕が書く技術雑文は今回の文章を含め、大体この方向性からのものになっている。ネタ自体の新規性は諦めて、ふと浮かんだ些事を切り口にして、既存の文章をいろいろ調べ、それを土台に誰もが知っている話題の本質に迫る・・・努力はしているのだけど、それほど大層なものにはなってませんね。ごめんなさい。

 けれど、人の文章をそのままパクって同じ効果を得るようなことはしたくない。やはりこれは、ワタシのような場末のウェブもの書きでも守らなければならない仁義だろう。そして、ネタが誰かの文章と被っているのを後で知ったら、それを素直に、そして大いに悔しがりたいものだ。

 もう一年近く前の話であるが、珍しくトピカルな話題を扱ったことがあった。すると、某有名サイトの作者から「先を越された。悔しいぞ」メールが届いていたことがあった。氏もちょうどそのとき同じ話題を取り上げていたのだ。

 先を越されたといっても更新時間は一日の開きもなく、内容的にも一部の視点が重なるだけで、パクリだなんだと邪推を受ける余地はまったくない。氏の率直さと何よりうちのページをちゃんと読んでくださっていることに感激したのを覚えている。


 しかし、内容的なところはともかくとして、もう少し枠を大きくして、ウェブサイトとしての企画的なところになると、僕もちょっと歯切れが悪くなる。例えばうちのサイトの薀蓄links、このコーナーで取り上げたこともあるやゆよさんから、氏が NIFTY 時代にプロのライターさんらとともに「リンクにかこつけたエッセイ集」というのをやられていたことを教えていただいたが、わりと多い企画のようだ。YAMDAS を立ち上げたときには藤原さんの「素晴らしきこの世界」は少し読んでいたが、その後「雑文付きリンク」も知り、うちの薀蓄linksはこれのパクリと言われてもしょうがないな、と思ったことを覚えている。

 しかし、「他人のフンドシで相撲をとる」というのがWebサイトの成功の基本らしいし、仕方ないじゃないと自分を慰めている。「日記読み日記」といったものも同じ流れに入るのだろうし。

 ただ成功しているサイトのコンセプト自体を、その周辺文化を知ることなしにパクったりすると痛い目に遭う。「1ちゃんねる」を標榜しようとして潰されたサイトなどその最たる例である。あめぞうの名誉称号である「1ちゃんねる」はやっぱまずいっしょ。あめぞうから2ちゃんねるへの変遷については、ワイン比呂有紀氏による感動的な名文(と「2ちゃんねる研究」で紹介されているのを見て、冗談だろと思って読んでみたのだが、これが本当に感動的だった)「ネットバカ一代」を参照してください。


 また、ウェブページとして形にする上で不可欠な HTML についても、初めから今のレベルでごりごりエディタで書けたわけではない。僕の場合一応書籍を一冊は買って読みもしたが、他のサイトの(規格に合った書式で書かれた)HTML ファイルこそが一番の勉強素材だった。何かやりたいことがあれば、似たようなことをやっている他のサイトから HTML を取ってきて、該当部分に自分なりに手を加え、試行錯誤してきた。これもパクリの一種なのかもしれないが、それを厳密に言いたてられると少々ツライ。

 だから、昨年ネットサーフィンの過程で、うちの HTML ファイルを参考にして個人ページを作ったと明言されている人を見つけたときは嬉しかった。自分が他の人の HTML を参考にして規格に合った HTML を書いてきたことが、他の人に再利用していただき、僕自身が参考にした人達に対して恩返しができたようで良い気分になったものだ。

 ただ、うちのサイトを見ていただければ一目瞭然なように、僕にはデザインセンスというものが決定的に欠落しているので、うちの HTML ファイルがウェブページ作成の良い素材かというと甚だ疑問なのだが。


 昨年末 Clockwork freddie(閉鎖)の過去のページデザインを無断使用したページのことがちょっと話題になったが(freddie memo の2000年12月25日、28日、30日の記述参照)、そうした再利用の仕方も紙一重なのかもしれない。

 ただ freddie さんにしても、パクリ自体はそれほど問題視してない。問題は、それがウェブという公開的なメディアに載ってしまうということで、この事例の場合は、直接くだんの作者氏が、Clockwork freddie の掲示板にリンク付きで足跡を残したことで事が急速に進んでしまった感がある。自分から登場しておいてとぼけるくらいなら、初めからメールで許諾を取るなり通知を行うなりしておけばよかったろうにと思うのだが、それはくだんの作者氏も後に悔やんだことだろう。

 やはりお互い人間がやっていることである。昨年銃夢ハンドルネーム問題というのがあったが、うちらの作品名をハンドルネームとして使うな、という元から問題アリの主張を、非常に高圧的にやってしまったがために一気に反感を買い、その要求を全面的に撤回・謝罪するのみにとどまらず、貴様だってフランク・ミラーのパクリを散々やっておきながら人にハンドルネームごときでとやかく言えた義理か、と側面からズタボロに批判を浴びることになってしまった。


 ただマンガ、アニメの世界ではパクリの長い伝統(?)があるようで、ときどきそれが表に噴出したりはするが、「銃夢」のパクリ問題にしても、愛・蔵太さんは「うまいパクリの例」に分類していたり、同人誌生活文化総合研究所においても、「程度の差はあるにせよ、これと似たようなことは多くのまんが家がやってる」と評されていたりする。もしそうだとするなら、後者の方で引用されている竹熊健太郎氏の「大手出版社はお金を出し合ってまんがの資料として利用できるフリーの写真ライブラリーを作るべき」という提言の実現が急務ではないだろうか。

 そしてそれが可能なら、自由に利用可能な文章、というのもあるはずである…と考えたわけではないだろうが、「狸穴送信所」における文章のフリー素材宣言というのもあった。僕はこれをはじめ巡回先である「ロバ耳」で "利用" されているのをそれに気付かず読み(普段の文体と違和感がなかったので)、最後に爆笑してしまったのだが、これは確かに面白い。


 ただもう少し話をまともに詰めるとなると、いくつか問題で出てきそうだ。

 まず日本の著作権法下で著作権放棄(パブリック・ドメインに置くこと)が可能かという議論がある。GNU Free Documentation LicenseOpenContent License日本語参考訳)あたりを担保にすることで解決可能かもしれないが、この宣言自体簡単でラフな思いつきなのだから、あまり厳密なライセンスを適用してしまうと、ライセンス自体が目指す方向性と現実の利用との乖離が出てしまうことも想像できる。

 それに他人のコンテンツを「利用」をする人間が、善意の人間に限らないということもある。検索して調べてみたら自分の文章を(コピーライト表記を削除した無断転用を含む)コピーサイトを7件見つけたという事例や、エロサイトへの誘導用に勝手にミラーサイトを複数立ち上げられた(絶句…)という事例を読むと、暗澹たる心持ちにもなる。

 恥ずかしながら、うちのサイトの文章もこの手の被害にあった経験が(当方が認識しているだけで)二度ある。一つ目は「驚愕! オウム真理教と私の全く予想外の接点」という文章にしているが、自分が書いた文章がオウム真理教の掲示板にクレジットなしに全文無断転載されたことで、もう一つ目は僕が訳した iBrator 日本語版を僕のクレジットを消して公開しているサイトを二つ見つけたことである。前者に対しての感想は既に書いたのでここでは省略するが、後者に対しては、ご丁寧に訳者のクレジットを消す確信犯ぶりに正直腹が立った。だからといって別に抗議はしてないし、今はないようなのでもういいけど。


 これも昨年末の話であるが、「雑文館」、「それだけは聞かんとってくれ」「補陀落通信」といった雑文界の有名どころの文章をそのままパクって自分の文章として公開していたページが抗議を受け、閉鎖した。この場合、コピーライト表記を自分につけかえていたので、パクリというより盗作に近い。「どこからもリンクされていないサイトなので、いいだろうと軽く考えて」いたとのことであるが、ウェブという公開的なメディアの性質を考えるとあまりに浅はかである。

 この事例の場合、パクられる方が有名で、パクった方が指摘されたら素直にそれを認め謝罪する良心(というのかな)を持っていたからよかったが、そこで居直るぐらいのあくどさがあったらどうだっただろう。ましてやパクった側の方が圧倒的に知名度が高かったら?

 デジタル配信されるコンテンツは簡単にコピー可能である。そしてそれがテキストであれば、著作権者が誰であるかを、状況証拠以外で保証する仕組みを利用する人間が少ない現在、改竄すら容易だ。またそんなおおげさな話でなくても、日本でも常時接続が一般的なものとなり、ローカルのファイルとリモートのファイルへの区別が曖昧になっていけば、悪意抜きの事例だって増えるだろう。


 そうした意味で、僕は「デジタル時代の著作権を考える 著作権ORG」に注目している。著作権保護だけなら色んな人が言っているが、ここに好感が持てるのは、著作権保護を料金徴収とセットにせず、飽くまで誰がいつオリジナルを創造したのか、という本来的な著作権のみを保護証明することを目的としているところだ。

 インターネットの普及により作品公開とその受信の敷居が低くなったところに、JASRAC などの腐った既得権集団の活動ばかりが目立ってしまうせいで、一部で「著作権」自体を問い直す声が出ている。僕もそれ自体は有意義だと思うが、一足飛びで「著作権なんてクソ食らえ!」的空気が先に蔓延してしまうのはマズいとも思うのだ。

 しかし、サイトを見る限り特に目立った進展はなさそうなのは残念だ。鐸木能光氏による趣意書を読むと、それなりにしっかりした著作権証明機構のイメージができている。後は技術面からのサポートだろう。NTT データなどがやろうとしているところとかなり近いと印象があるのだが、企業でなくても認証局、暗号、電子署名、証明といった技術的なところと政治が絡む面白い分野に違いない(今年の四月一日には「電子署名・認証法」が施行される)。フリーソフト/オープンソースな技術者達が貢献できるところも多いと思うのだがどうでしょう。

 少なくとも僕が鐸木能光氏のビジョンを更に先に推し進めるようなマニフェストを打ち出せるとよいのだが、僕のような頭の悪い人間がそれを無理にやろうとすると誰かの文章をパクることになりかねないので、今回の文章はここまでにしておく。


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初出公開: 2001年01月15日、 最終更新日: 2002年07月13日
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