著作権保護期間の延長問題を考える国民会議第1回シンポジウムを受けての簡単な備忘録


 2006年も締めくくりの時期となり、この一年を振り返る企画もいろいろ目にする。当方も今年公開した YAMDAS Project の文章を見直したのだが、Technical Knockout に関していうと、翻訳は今年もぼちぼちやったものの、技術コラムは「さらばわれらがビル・ゲイツ」一つしか書いていない。

 長尺のストロングスタイルの技術コラムを書く筆力が失われてしまったということだろうが、一年で一本は寂しすぎる。著作権保護期間の延長問題についてきばった文章を書いてみようとしたが、どうにもエンジンがかからない。しかし、書き残しておかないと最近では考えていたこともすぐに忘れてしまうので、浅くでもいいからリハビリを兼ねてとにかく何か書いておこうと思った次第である。


 著作権保護期間の延長問題を考える国民会議が開催した第1回シンポジウムはストリーミング放送で聞いた。この問題について賛成派と反対派が一堂に会する機会を設けるまでに関係者の大変な苦労があったことは世間知らずの当方も容易に想像できる。以前より著作権保護期間の延長に反対な当方は、ストリーミングを聞いていてかなりフラストレーションを感じたが、妥協と遠慮も必要だったのだろうと自分を納得させ、簡単に感想を書くだけにとどめておこうと思っていた。

 しかし、ITPro 記者の眼の「著作権保護期間について「延長賛成派」の意見を聞いた」を読み、先日感じた憤怒が蘇った。具体的には、この文章の最後のところである。

 パネルディスカッションの最後には,会場の福冨忠和ディジタルハリウッド大学教授(発起人の1人)から「保護期間延長に反対の人は,皆さん子供をお持ちじゃないから未来に対するイメージが(子供をお持ちの方と)違う。少なくとも,このパネルディスカッションに参加している皆さん(山形氏,平田氏,富田氏)はそうですよね」という主旨の発言があった。個人的には,この日の延長賛成派の発言の中で,最も説得力のあるものだった。

 福冨忠和の言い方には、反対してる人ってみんな要は子供いないだろ、という侮蔑的なトーンを当方は感じたが、これは当方の非モテセンサーが過剰反応しているだけの可能性が高いので、公開されているストリーミング映像で各自ご判断いただきたい。

 「未来に対するイメージ」の話が論点であることはぐっとこらえて当方も認める。しかし、この記事を書いた神近博三は、「この日の延長賛成派の発言の中で,最も説得力のあるものだった」と思ったんだね。ここを読んでホントしばらく呆然としちゃったよ(実は巧妙なDISりだとしたら驚きだけど)。


 お子さんのおられるクリエイターの方々にお伺いしたいのだが、あなた方も福冨忠和と同意見だろうか。子供がいるから、著作権保護期間は著作者の死後50年でなく70年必要と考えますか?

 当方には、著作権保護期間延長賛成派の主張がどうも論理的に思えないし、多分に感情的、情緒的に感じられる。ITmedia に公開された「著作権保護期間は延長すべきか 賛否めぐり議論白熱」を読み直してみてもその感想は変わらない。

 延長派の三田誠広が言う『誰かにちょっとほめてほしい』という気持ちは理解できるとしてもそれは著作者の死後の保護期間とはまったく関係ない話だし、著作権が切れたからこれまで賞賛された著作者がそっぽをむかれるということもない。誰がその作品を生み出したかという事実が消えうせるわけではないのだ。また三田誠広は太宰治の遺族の引き合いに出しているがその内容には誤りがあるし、勝手に他人の意見を代弁する暇があったら津島佑子坂口綱男をはじめとする、最近十年で著作権が切れた/切れる著作権者である作家の遺族に実地に調査をしたらどうだと言いたくなる。

 調査の対象は、今なお作品が絶版になっていない、つまりは著作権により恩恵を受けている著作権者に限ればよい(そうでない著作権者にはどうでもよい話だろうし)。そうした作品の著作者は、太宰や安吾など端的に言えば有名人だから、著作権者が行方知れずになっている可能性も低いのであたりをつけるのに苦労はしないし、いくつかポイントについて質問すればよいだけだから遺族に過剰な負担をかけることもない。なぜそれぐらいやらないのだ。

 これは三田誠広個人でなく日本文藝家協会の非だが、この点に関して日本文藝家協会は、まがりなりにも違法コピーによる損害額についての数字を出してくる JASRAC にも劣るといわざるを得ない。


 松本零士にいたっては……この人が「そういう人である」というのを認識してからそれなりになるからもう驚きはしないが、かつて『銀河鉄道999』をこよなく愛し、同じくこの作品を観て育った同世代の友人二人と『銀河鉄道999 エターナル・ファンタジー』を映画館に観に行き、一時間足らずで終わって呆然とした人間としては複雑な気持ちである。

 「若くして亡くなった作家の妻に『あと数年で主人の著作権が切れるんです』と涙ながらに訴えられた時にどう思うか」と情に訴えられても、少しでも現実モデルにあてはめただけでおかしいことが分かる。「そばやうどんと一緒にしてもらっては困る。作家の作品は残るが、そばやうどんは私にも作れる」という発言に関してはいわずもがな。「発明は発明者の死後どころか出願日から20年しか有効でない? 発明と一緒にしてもらっては困る。作家の作品は残るが、青色発光ダイオードなら私にも作れる」とかテンプレにして現実逃避するぐらいしか反応のしようがない。

 突っ込みどころの多い発言といえば、三田誠広は「サンテグジュペリ(1944年没)は欧米では権利が続いているが、日本では勝手に翻訳が出せる。野蛮な国と見られているだろう」と書いている。その当人が『星の王子さま』を翻訳しているという身体を張ったギャグはスルーするとしても(「死後70年までの著作権」をきちんとクリアして刊行される可能性だってあるわけだし)、この論法に従えば死後どころか作品公開から50年で音楽の著作権が切れるイギリスなんて野蛮も野蛮、救いがたい音楽後進国ということになるのだろうが、ビートルズとストーンズとキンクスとフーとキング・クリムゾンとデヴィッド・ボウイとモリッシーを生んだ国をそう呼ぶ人をワタシは寡聞にして知らないのだが(念のため書いておくと、イギリスの保護期間が妥当と言いたいわけではない)。


 しかし……こうやって文章を書いていて、当方はなんともいえない虚しさを感じる。延長賛成派の人たちとの感覚の乖離を前にして途方にくれてしまうのだ。冒頭に引用した神近博三の文章を読み、それを再認識してしまった。

 当方も著作者は保護されるべきだと思う。急逝した著作者の遺族が路頭に迷うのをみるのは忍びない。しかし、「著作権の保護期間が著作者の死後70年はいくらなんでも長過ぎだろう、常識的に考えて」というのが当方の常識なのだ。

 ローレンス・レッシグの『Free Culture』の冒頭に登場する、土地の所有権は果てしない距離の上方まで適用されると主張し、空軍機の飛行差し止めを求め政府を訴えたコーズビー一家に対し、合衆国最高裁判所のダグラス判事が簡潔に述べた、

「そんな発想は常識的におかしい(Common sense revolts at the idea.)」

という言葉はここでも通用すると思う。しかし、そう思わない人もいる。そしてそれは子供がいる/いないで変わる……のか?

 いずれにせよ、著作権が著作者の孫の世代まで保護されるべきという考えは、当方にはどうにも納得できない。一方で三田誠広や松本零士の発言だけ見ていると、著作権の保護期間が切れたら著作者に対する敬意も名誉も賞賛も根こそぎなくなっちゃうような錯覚に陥るが、そんなわけはないのだ。安吾でも太宰でも今現実にいくつも実例があるだろうが。

 未来のためにとか、改革といえば聞こえはよいが、年金問題や地方財政などの話と違い、今すぐ手を打たないと財産がボロボロ失われていく、なんてものでもないのだ。延長が現在の創作者のモチベーションを上げるという主張を別とすれば(もちろんこれだって噴飯ものだと思うが)、その効果があらわれるのは最低でも50年後である。延長するならいつでもできるのに、法律として一度延長した保護期間を元に戻すのはひどく難しいというのは誰でも分かる理屈だ。それをどうして急がなければならない。


 一方で今できることもある。上に書いた、実際に著作権が切れた著作権者への聞き取り調査がまさにそうだ。そしてここからが重要なのだが、どうもここまで賛成派と反対派の主張がかみ合わない理由の一つに、賛成派の主張は保護期間延長云々よりも「自分の能力や労力に見合った報酬や尊敬を得られていない」という不遇意識に何より起因するのではないかと当方はにらんでいる。

 この点について bewaad institute@kasumigaseki で議論がなされているが(前編中編後編)、当方が鈍いせいか、正直ここでの議論があまり現実的なものに思えないというかピンとこない。

 それよりも著作権保護期間の延長問題を考える国民会議による第2回シンポジウムがあると信じて、延長反対派がとるべき現実的な戦術を考えたい。

 延長賛成派の意識に「自分の能力や労力に見合った報酬や尊敬を得られていない」というのがあるなら、その妥当性はいったん置いておき、それは保護期間延長でなく、今現在の権利をしっかり守り、著作者の立場が向上することで問題が解決することを示すべきではないか。

 これはかつての CCCD 問題や、先日地裁での判決が出た Winny に関する議論にもあてはまることだが、延長反対派が著作権に冷笑的な態度と見られるのは明らかに損であるし、第1回シンポジウムで三田誠広が「社会主義」という言葉を使っていたことからすると、実際そう見られているのかもしれない。

 ならば延長反対派も次回のシンポジウムではその心理を理解し、我々も著作権の重要さは十分認識しており、我々も今現在の権利を守るのに賛成で、今あなた方の実入りをよくする方策はこれですよ、これだと保護期間延長などより手近、確実に成果が見えますよと相手に寄り添いながら丸め込むべきではないだろうか。


[前のコラム] [技術文書 Index] [TOPページ] [次のコラム]


初出公開: 2006年12月18日、 最終更新日: 2006年12月18日
Copyright © 2006 yomoyomo (E-mail: ymgrtq at yamdas dot org)