最近の翻訳ではヒットといえる「プログラミングを独習するには10年かかる」には、作者の Peter Norvig の好みだろうが、エピグラムがいくつも引用されている。特に Alan Perlis のものが面白く、彼のエピグラムの集大成である "Epigrams on Programming" の中には、「プログラミングを独習するには10年かかる」で引用されたもの以外でも、「LISP のプログラマはあらゆるものの値を知っているが、コストに関して何も知らない(A LISP programmer knows the value of everything, but the cost of nothing.)」など有名なものが多い。
彼の名前を Google で検索しただけで、"Epigrams on Programming" を(無断)転載したサイトがいくつも出てきたのに驚き、それなら訳してみようかとも思ったのだが、何しろ20年程前に書かれたものであるため、現在の感覚ではピンと来ないものがあったり、何より僕程度のプログラミングに関する基礎知識では訳すのが難しく、断念した(というか、既に翻訳があるのかな?)。
そこで当方は、自分がこれまでに訳した文章に目をつけた。それらから、エピグラム集みたいなものを作れないか、と。しかし、当方が訳した文章は、そうしたものには適してないようで、それも諦めたのだが、せっかくなので、自分がこれまで訳した文章の中の一節を取り上げながら、その文章のこと、翻訳についてのこと、そして翻訳と関係ない当方の思いまで、便乗してだらだら書かせてもらう。
三回シリーズになる予定なのだが、どうも僕の場合予告するとその通りにならない、というジンクスがあって、そもそも今回の題名にも(1)を付けてないのはそうした僕の弱気をあらわしていて(以下略)。
僕がはじめて翻訳したのは、RMS の文章だった。当時、オープンソース運動が盛り上がると同時に、旧来からのフリーソフトウェア運動との摩擦などが取り沙汰された時期でもある。僕はある意味、レポーターに近い意識で、当事者達の短い雑文を訳していた。
ESR はマイクロソフトの連中を「レドモンドのボーグども」と書いたりするが、そのレトリックが真実でないのと同様に、フリーソフトウェア/オープンソースを巡る人達の信条は多様である。それでもいくつか論点があるわけで、代表的なところでは、
あたりだろうか(最後のは論点じゃねーぞ)。例えば Linux と *BSD とを対立項として扱うのは間違いだという意見があるだろうし、それはその通りなのだが、その前に挙げた「GNU GPL の評価」という点と絡めると、意識の差はあるようにも思う。
そうしたものと比べ、フリーソフトウェア運動とオープンソース運動の対立というのは、感情論以上のものがあるか未だに疑問だったりする。「オープンソースの定義」を厳密に適用するならば、齟齬なんて起こりようもないはずなのだが。もちろん RMS がこの文章で主張するような「オープンソース」という用語の一人歩き、誤用悪用は現実問題あるのだが。
ちなみにこの文章は僕が訳してから二年以上定期的に修正が入り続けている。その修正の内容は、マークアップやスペルのミスの修正の他には、Qt のライセンス変更などによる状況の変化にもちゃんと対応していて感心するのだが、御大 RMS による修正が加わるたびに、オープンソース運動に対する記述が苦々しさを増している印象がある。そのたびに、RMS の意図とは違った意味で、当方も苦々しい気分になる。
この文章は、Bruce Perens が OSI の役員を辞任するにあたって書かれたもので、前述の二つの運動の対立がその背景にある。
FSF というと、どうしても RMS のイメージが強烈で、GNU 真理教などと表現する輩もいたりするわけだが、もちろんそれだけの団体ではない。
宮台真司が、レッシグの「CODE」についての書評を書いているのだが、以下のくだりを読み、はっとした。
■米国では、優秀な政策シンクタンク、政策秘書、NPOなどが、こうした役割を果たす。背後には大学院レベルの豊かな政策科学教育と、それによって輩出される人材の分厚さがある。官僚世界の外側にあって官僚と同等の法律文書リテラシーを持つ者たちがいるということだ。
「こうした役割」とは、民間における法案のチェック機構を指しているのだが、フリーソフトウェア界においては、FSF や(守備範囲は少し違うが)EFF がその役割を果たしている。FSF の活動の成果物は GNU ソフトウェアだけではない。GNU GPL こそが、好き嫌いはあるだろうが、GPL が「官僚と同等の法律文書リテラシーを持つ者たち」による成果といえるだろう。
そうした意味で、日本の現状はどうだろう。国別で分けることに意義があるのか、と言われるかもしれないが、それがあるのだ。それは件の宮台の文章にも一部述べられているが、住民基本台帳法改正後の国民総背番号制というコースにより、「日本型 IT 社会」とやらの利権を握ることをもくろむ総務省、という「日本の事情」に市民の側から対抗する受け皿がないといけない。日本の Linux 界では、未だコミュニティでの活動を云々している段階で、FSF がコロンビア大学教授の Eben Moglen を顧問に迎えているというようなバックボーンは確立していない。
嗚呼、なんてことだ。山根信二さん、僕はようやく貴方が知識人の伝統を踏まえながら「市民運動家」と自称した意味が分かった気がします。何て俺は飲み込みが悪いんだ!
そこまで FSF の功績を考えると、Perens の主張も理解できる。僕の先ほどの文章もそうであるし、「忘れられたLinuxの男」など当時の論説記事を読んでも、「RMS の個人的苛立ち」レベルに落とし込んで解釈されがちであったのは間違いない。
遅れ馳せながら2ちゃんねる検索なるサイトを知り、自分の文章がリンクされてないか調べてみたところ、予想通りというべきかこの FUD の訳文が複数のスレッドでリンクされていて、感激してしまった。引き合いに出してくださった2ちゃんねらーの方々にこの場を借りてお礼を述べさせてもらう。
ただ都合良くリンクはされるものの、この文章の後半部分にある AMSTRAD の実例までちゃんと読んでいる人は少ないように思う。上に挙げたのは、本文の最後のところで、電力効率、冷却機構の両面で優れていた AMSTRAD のコンピュータが、競合他社の FUD によって潰されたことについて書いている。この事例は一方で、我々が自分たちにとって不合理、不便であるはずのものを、知らず知らずのうちに正当化する心理的働きの実例とも読める。勿論「無知は罪」レベルで FUD にひっかかることも多いのだが、ファンの音に不平を言いながら、なおかつそれに安堵を感じるまでに、我々の心理は不合理にできている。フロイトなら、「集団的な誤謬の訂正」というだろう(ウソ)。
ただ一方で、この事例は現在でも通用するかなあ、とも思う。とにかく日本の夏は暑いし、常時接続が家庭でも当たり前の時代になり、24時間連続稼動のマシンが増えれば、「暑い」は「熱い」に変わりかねない。やはり冷却ファンがないとね…
そこで心配に思うのが、先進国の人間が使用した後の中古パソコンを、発展途上国に提供しようという運動。その趣旨には賛同するのだが、送り先となる発展途上国は、東南アジアなど高温多湿の地が多かろう。そうしたとこに中古機を持っていって大丈夫なのだろうか。ソフトウェアは、それこそ Linux などのフリーソフトウェアで安価、かつ柔軟に対応することもできる。しかし、ブツ(ハードウェア)ばかりはどうしようもない。
力武健次氏は「常時接続感覚への中毒」の中で、「冷房機が発明されなければ、シンガポールや香港、日本の人達が世界と戦えるだけの文明と技術を持つことは不可能だったであろう」と書いているが、パソコンを買う金に困っているところに、立派な冷房設備があるわけもなかろう。実は21世紀は、「経済のグローバル化」云々以上に、「クソ暑い」か「クソ暑くない」かという身も蓋もなくいかんともしがたい現実が、南北問題の解決を阻むのかもしれない(ウソ)。
この文章には多くの人が同意するだろうが、この一文の背後には悲しい認識がある。つまりそれは、エヴァンジェリストとしての RMS が、非ハッカー社会に対しては失敗し続けてきたということでもある…と書くと、いろいろ批判が出るだろうが、この頃の ESR の文章は、こうした雑文からも大変な自信を感じる。これは当時のオープンソース運動の勢いというか、時期的なものが大きいのは間違いない。
この当時、訳者も立て続けに ESR などの文章を訳しているのだが、僕自身は非常に危機的な状況にあった。仕事に行き詰まっていたところに、私生活でも大変な災厄を招いてしまい、毎日友人に電話をかけては泣く日々だった。「泣く」というのは誇張ではない。毎日、うぇーんと声をあげて泣いていた。
鬱状態だと文章が書けないから翻訳をやる、と以前にも書いたことがあるが、大体ウェブなんか更新してる状態…というか、更新している場合ではなかったのだ。この文章を書くために公開日のリストを見なおし、呆れてしまった。バカ、という段階を越えている。ある意味狂っていたのだろう。
そしてその成果である翻訳にシド・バレット的な輝きがあれば美しいのかもしれないが、もちろんそんなものはない。鬼気迫る状況下で成された仕事が凡庸であるというのがいかにも僕らしく、またその凡庸さに失望もするが、それはそれでよいのだとも思う。翻訳は飽くまで翻訳であり、訳者の事情などどうでもよく、正しく訳され、それが読者の役に立つことだけが重要なのだから。
僕の訳した文章の中では、FUD と並んで屈指のリンク数を誇る文章である。その筋には非常に評判が良いのだが、訳者が「あまり好きではない」と公言してきたものであるだけに、少し複雑な気分にもなる。
ここに引用したのは、ハッカーの管理に関する問いに対する答えである。原作者は愛猫家であるようで、彼のサイトには Bonsai Cats なるページがある。Bonsai Kitty というページがお手本らしいが…「盆栽子猫」ねぇ、分かんねぇなぁ…ひょっとして今アメリカで Bonsai がブームだったりするのだろうか。Mozilla のソースコントロール・インタフェースの名称が bonsai だしな…
さて、「猫が行く」(くだらな随想)を契機に猫雑文祭が意図せず(?)勃発したが、大本の下条さんは、「犬と猫」を読む限り犬派であるようだ。僕は動物を飼うこと自体に興味がないのだが、下条さんの文章を読んでいると、うっかり同意しそうになってしまう。僕が「管理職のためのハッカー FAQ」をあまり好きになれないのも、案外猫への不理解が原因だったりするのかもしれない!?
Linux 企業も、ストックオプションでウハウハ(死語)だった季節は過ぎ去った。それをバブルに乗ったドットコム企業と意図的に同列視して語るのがマイクロソフトの狡猾さなのだが、それはさておきその今こそ味わいを持つ文章というのもある。Alan Cox のこの文章などその代表例だろう。訳したときには地味な印象があったのだが、今となっては安定系カーネルメンテナンス責任者の名に恥じない磐石さを感じる(何じゃそりゃ)。
ビジネスモデルの話としては、引用した部分の後に名前が出てくる Bob Young(Red Hat Software の CEO)の、「ユーザにすべてを提供するビジネスモデル」あたりと合わせて、今一度足場を固めるよいサンプルなのではないだろうか。遠回りに思えてもね。
そして、オープンソース・ソフトウェアの優位性という点においては、こうした認識がちゃんと浸透していかないといけない。この文章で述べられるレベルの「ピアレビュー」は、eXtreme Programming との親和性も高いと思うのだが、僕自身そっちを早く勉強しないと…
アンチ・マイクロソフトという立場も微妙なものだと思う。僕自身あの会社が好きか嫌いかと聞かれれば、間髪入れず大嫌いだと答えるが、この文章を彼らが作っている OS 上で書いているのも事実なのである。個人的にはそれに矛盾は感じないが、安直にアンチ・マイクロソフト感情を煽るだけの文章などを見ると、盲目的にマイクロソフト製品を礼賛する人間とは違った意味で軽蔑も感じる。
またそうしたものでなくても、また引き合いに出して恐縮だが力武健次氏ほどの聡明さを持った人が、「ゲイツOS」などいう安易なキャッチフレーズに頼ったりしている。こうした物言いは本質的に正しくないし(PC-DOS の時代じゃないんだ)、何よりくだらない。
フリーソフトウェア/オープンソース界との関わりに絞ってみても、マイクロソフトという企業は非常に不愉快なだけでなく、大変手強い。我々を驚かせたハロウィン文書の分析段階から数歩踏み出し、最近では攻撃の的を GNU GPL に絞っている。「アメリカ的でない」(Jim Alchin)、「癌」(スティーブ・バルマー)、「パックマン」(ゲイツ君)、「知的所有権を破壊する」(Craig Mundie)など表現は様々であるが、目の付け所は的確だと思うし、早速「共有ソース」プログラムを発表し、Windows CE 3.0 のソースコードをそれに基づいて公開するなど敏捷とすら言える。
MS 製品のアホな仕様・機能を目の当たりにするたび、一体どこのバカが作ってるんだと憤るときがあるのも確かである。しかし、あの会社の我々を支配しようとする、狡猾でパラノイア的志向はとどまるところをしらない。オープンソースの人間も、彼らを見下すのもよいが、彼らの強欲の勢いに負けてしまっては元も子もない。連中の製品が時に「鎮静剤をキメた豚」のように感じられるからといって、連中皆が「鎮静剤をキメた豚」ではないのだ。
つまりは、引用した ESR の rant を、誰もが安直にわめきたててよいというわけではないし、それで一件落着してはいけないということ。あの時点の ESR なら、こう書く資格があったのは確かだし、訳してあまりに面白くて大笑いしちゃったけどね。