旧聞に属する話題だが、先の民主党大会に参加したレベッカ・ブラッド(Rebecca Blood)が、見聞録をまとめている。
アメリカの大統領選挙については、民主党のハワード・ディーン候補の躍進にブログが……という話を既に百万回ほど聞いたし、今回の民主党大会(共和党大会も)においてブロガーに記者証が発行されたのが話題になった。が、そのこと自体は、個人的にはどうでもよかったりする。
だって、本当に意志を持った人たちは、別に記者証なんかなくったってレベッカ・ブラッドのようにボランティアとして参加するのだから。
話は逸れるが、今ローレンス・レッシグの『Free Culture』を読んでいる途中である。政治問題を扱うブログの話(p.60-62)のあたり、お決まりの展開はうんざりした。端的に言って、この分野に関するレッシグの認識は陳腐。「あらゆる政治色を持ったブログがたくさんある」のは確かである。しかし問題は、結局それらのブログもセクト化し、自分達に近い主張にしか耳を傾けない傾向がはっきり出ていることだ。それはレベッカ・ブラッドが『ウェブログ・ハンドブック』のあとがき、あとインタビューでも懸念を示し、そしてティム・オライリーが、「WWWで見られる政治的傾向」において、まさにレッシグがこの部分の議論の前提にしている Cass Sunstein の Republic.Com(邦訳『インターネットは民主主義の敵か』)の内容が、ウェブにおける政治傾向にもあてはまることを述べている。
何が言いたいかというと、ブログだから既存の問題から自由になれるわけはなく、安易な礼賛は禁物だということ(実際、この部分は本の中でも浮いているように見える)。既存マスメディアの堕落により、ブログの魅力が際立つところがあるということ。これについては後で触れる。
レベッカ・ブラッドの文章には David Weinberger や Jessamyn West といった古参大物ブロガーの名前が出てくるが、何といっても興味深かったのは、(『Free Culture』でもインタビューを受けている)デイブ・ワイナー(Dave Winer) との邂逅である。
ワイナーが主催した Convention Bloggers が民主党大会に参加したブロガーのポータルの役割を果たし、彼自身精力的に文章を公開したわけだが、レベッカ・ブラッドとの出会いは、彼にとってもかなり感慨深かったようだ。以下に一部翻訳しておく。
さて、これまでの経緯を知る人なら、彼女と私が時に意見が合わず、必ずしも良い関係になかったことをご存知だろう。先週の水曜まで、我々は一度も直接会ったことがなかった。会ってみると、彼女はクールだった。我々は大いに楽しんだ。彼女は広い心のある、とても魅力的な感じの人で、彼女がそれを私に示してくれたのでなお素晴らしかった。あの晩にあった魔法を疑うのかい? いいかい。それは確かに存在した。
確かに二人の関係は良好なものではなかった。もっともそれは、ワイナーがブラッドの『ウェブログ・ハンドブック』をこっぴどく酷評して以来、何度か彼女の文章をけなしたというだけで、それに対してブラッドがフレームに関わることは(ワタシが知る限り)なかった。まさに『ウェブログ・ハンドブック』に書いたことを実践したわけで、そういうところは偉いよなと思う。一方で、自分に与えられるべきクレジットが足らないと見るや容赦なく叩くワイナーもいかにも彼らしい(と書くと怒られるだろうが)。
このように民主党大会を伝えるウェブログのエントリを読み、その全部とは言わないまでも一部に感じるのは、アメリカのリベラル・インテリ層の切迫感、簡単に言うと、「とにかくブッシュをホワイトハウスから追い出さなきゃ」ということだ。
それは民主党大会そのものからも感じられたことで、それは党として当たり前とも言えるが、初日からゴア、ヒラリー、そしてクリントンが登場したのにはやはり驚いた。ヒラリー前大統領夫人のスピーチは、当初予定されておらず急遽決まったらしいが、今回の党大会の主人公であるはずのジョン・ケリーの陰の薄さが浮き彫りになっていたように思う。
実際のところ、そのジョン・ケリー大統領候補の演説をはじめとして、会場が盛り上がりを見せたのは、ブッシュ政権批判の言葉であった。その辺にイラクとの戦争を支持した過去があるケリーのジレンマを感じたりもする。
ただ、今回の民主党大会を伝えるメディアの報道の質は低かったようで、ポール・クルーグマンも New York Times に「Triumph of the Trivial」という文章を書いてそれを指摘しているが、これも放送の公平原則の問題が影響しているのだろうか。だからこそ、テレビを見るよりもブログをあたったほうが質の良い情報が得られるなどと言われるわけで、またイラク報道についても言われた昨今のテレビや新聞の質の低下と偏向ぶりが、『Outfoxed』をはじめとするドキュメンタリー映画が作られる原動力になったのだろうか。ドキュメンタリー映画自体の数が特段増えたとわけでもないのだろうが、最近になってアメリカのドキュメンタリー映画に注目作が多いように思えるのも、既存のマスメディアの凋落によりそれらがより際立つというところもあるはずだ。
さて、こうしたドキュメンタリー映画の話となると、マイケル・ムーアの名前を出さないわけにはいかない。
ワタシはまだ彼の新作『華氏911』を観ていないので、それについての論評はできない。ワタシはマイケル・ムーアの活動は面白いと思っており、どこぞのしたり顔系ブログのように、観てもないのに一言で彼の仕事を切り捨てる気はない。
件の民主党大会でもムーアの動向が注目の的だったが、これまでに読んだ情報から判断する限り、ムーアを突き動かしているのも、上に書いたとにかくブッシュをホワイトハウスから追い出さにゃという切迫感であるのは間違いなさそうだ。
率直に言ってその切迫感は当方も共感する。一方で、その切迫感による性急さが、「正しい目的」を掲げた言論萎縮につながるのではないかという意見も理解できる。ただ、やはりそれだけアメリカの大統領というのがあまりにも大きな権力を持つに至っていること、そして何より現在その任にあるブッシュという男にあまりにも問題があるという非常事態であるという認識なのだろう。
ちなみにレベッカ・ブラッドは『華氏911』について、「目論見通り成功するだろうが、この映画では誰も説得できない。リベラル系のウェブログを読んでいるなら、目新しいものは何もない」と良い評価を与えていないが、マイケル・ムーアについては、批判書『Michael Moore Is A Big Fat Stupid White Man』の邦訳もまもなく出るらしいので、日本でも彼の活動に対する検証は進むだろう。
最近のマイケル・ムーア関係の話で個人的に面白かったのは、「ザ・フーのピート・タウンゼンドがマイケル・ムーア監督にご立腹」である。
今夏念願の初来日を果たし、力強いライブを披露したらしいとはいえ(観たかった……)、日本でのフーの知名度が低いためあまり話題にならなかったが、ワタシが面白いと思ったのは、一見煮え切らないように見えるピート・タウンゼントの発言と、結果的に何でも利用してしまうように見えるムーアの単純さの対比である。この一件までムーアお得意のプロパガンダに見えてしまうのだが、一方でそれも今の彼の勢いの現れであり、その強引さが一部の強い反感を買う原因なのだろう。
結局ムーアは "Won't Get Fooled Again"(邦題は「無法の世界」)でなく、ニール・ヤングの "Rockin' in the Free World" を使用することにしたわけだが、本当にムーアはこのニール・ヤングの名曲を理解して使ったのだろうか。
この曲は、「自由な世界でロックし続けよう」というリフレインからロック賛歌とされるが、それは皮相な見方である。その間に挟まれる歌詞は、ホームレスや貧しさのため子どもを棄てる母親が描かれる救いがないほど暗いものである。つまり、この曲のリフレインは、単純な自由礼賛ではなくむしろロックや自由に対する呪いに近いものだとワタシは考えている。『華氏911』にそうした絶望まで見据えた映画を望むのは筋違いだろうが。
しかし、そもそも "Won't Get Fooled Again" を使おうと思った感覚からして、ワタシは危ういものを感じる。この曲にしても、単純なプロテストソングではなく、ピータンの煮え切らない発言ももっともなのだ。
変化は訪れるに決まっていた
それははじめから分かっていた
俺たちは檻から解放されたというだけで
世界は見たところこれまでと同じ通りだし
歴史が責められるわけでもない
この前の戦争でも旗は確かに振られたのだから
というか、ムーア、お前、「もう二度とだまされるもんか」というキメのフレーズだけ聴いて選んだだろ? ワタシが危惧するのは、ムーアの目的を達するためなら何でも利用するという単純さが、それこそブルース・スプリングスティーンの「Born in the U.S.A.」を愛国歌として利用しようとしたレーガンと重なってみえることである。
ここで再び脇道にそれるが、その「Born in the U.S.A.」使用に抗議して以降、政治的な発言を慎重に回避していたブルース・スプリングスティーンも、New York Times に論説記事を寄稿している。今回の大統領選挙には、相当な危機感を覚えたのだろう。
繰り返すが、ワタシはまだ『華氏911』を観ていないので、それについての論評はできないし、また映画の中で使用する曲のことで、いちいち難癖をつけられてもムーアもかなわんだろう。
しかし、ワタシがフーの曲の話にこだわるのは、この曲が非常に不吉な歌詞で終わるからである。
新しいボスに会うがいい
結局昔のボスとおんなじさ
たとえケリーが勝ったとしても、イラク政策、イスラエルとの関係といったあたりについて、大した方向転換を行わないという観測が既にあるのはご存知の通り。
ムーアが反ブッシュのプロパガンダであることを認め、その危険性を承知しながら、それでも伝えたいことを映画にするのは別に構わない。ワタシだって、ブッシュには早くホワイトハウスを去ってほしいと思う。しかし何年か経って、いや、あの映画には、実は "Won't Get Fooled Again" こそ相応しかったんじゃないか、なんてことにならないとよいのだが。