フリーソフトウェアにおけるライセンスの意義:後記


今こそフリーソフトウェアライセンスについて再び語るべきときだ

僕は yomoyomo。YAMDAS Project で文章を書いているのだけど全然知られていないようだ。僕は iBrator日本語版 も書いたし、オープンソース関係のエッセイをいくらか翻訳してもいるが誰の役にもたってないみたいで情けなくなる。翻訳文書はプロジェクト杉田玄白にも登録されている。プロジェクト杉田玄白の詳細については山形浩生を通して情報を手に入れられる。

凡そ二週間前、僕は「フリーソフトウェアにおけるライセンスの意義」を知らしめる文章を公開した。公開してから二時間後には「お笑いパソコン日誌」で取り上げてくださった南野さんのような方には感謝しなくてはならないが、幾らか注目されたようだ。そして今こそ第二期、つまりは日本でもフリーソフトウェアに留まらずライセンスの意義が増してくることを考え始めるときなんだ。注意してね、僕はライセンスと言ってるんだ。ナンセンスではないよ。

大部分のハッカーは、フリーソフトウェア、フリーウェア、シェアウェアが違うものを指す三つの用語であることを分かっている。けれども不運にも、半田正夫のような著作権の専門家がオンラインソフトウェアに関して語るのに、ライセンスの重要さを強調しなかった。今こそ我々がそれを明確にするべきときなんだ。世間に対し、フリーソフトウェアの「無料」という側面よりも、「自由」という意味が指すものが今なお重要であり、Linux のようなソフトウェアはライセンスが保証する自由なしにはありえなかったことを明らかにしなければならない。

僕が書いた文章にまつわる不幸の一つに、Vine Linux に関する記述ばかり紹介されて、他の部分が曇らされてしまったことがある。これは決してフェアなことではなかった。Project Vine に対して以前から「オープンではない」という批判があったことは僕も知っていた。折角 Vine Tool License 1.2 が出ても、その公開・運用が曖昧になって彼らの努力が無駄になることは許すまじきことだと思う。それを正す意味で Vine Tools のライセンスの変遷を取り上げた意味もある。但し僕の文章の中の記述には明らか誤解に基づくものもあったわけで、それは全部が僕の責任ではないにしても、誤解が正せたのはよかったと思う。

残念ながら、フリーソフトウェアが「オープンソース」という用語により奨励されるようになるに従い、ソフトウェア特許やビジネス特許がソフトウェアを書く自由を著しく損なう形で効力を発揮しだしている。更には UCITA のような、僕には我慢ならない悪法まで海の向こうでは成立しそうなのだ。僕は、偉大なる先達と偉大なる同時代人が創り上げたフリーソフトウェアの価値が歪められてしまうことを恐れる。僕は OSD が未だに我々の基準であるべきだと思うし、GPL や BSD ライセンスでなくても、それがユーザの自由を考えたものならば、開発者が独自にライセンスを作るのもいいことだと思う。そしてその定義に適するソフトウェアが奨励されるべきだと思うが、ソフトウェア技術者は更なる法律の理解と理論武装を求められる難儀な時代に生きていることを認識すべきだ。

感謝をこめて

yomoyomo


Nonsense?Essense?License!

 あー、他人の文章の模倣は疲れる。前回の「フリーソフトウェアにおけるライセンスの意義」は力の入った文章だった。一週間かけて書いた文章で、正直言ってそのせいでボロボロになってしまったのだけど、普段よりも反響も多かったし、書くだけの価値はあったと思う。今回は書いた後の動向、読者からのリアクションから考えたことをまとめておきたい。


 そもそも僕があの文章を書くキッカケになったbit誌2000年2月号の「排山倒海Linux」だが、はじめの方に出てくる「欧米では生活に染み付いている『自由』の概念を日本人は理解しとらん」という言説については、権力者から勝ち取るのは飽くまで liberty であり、日本語ではとりあえず「自由」という言葉を当てはめているに過ぎない、と mayo さんがコメントして下さった。確かに free も liberty も日本語では「自由」だが、後者には前述のような意味合いが加わる。思えば Richard Stallman は liberty という単語はあまり使わない(と思う)[註]。彼(と FSF)にしても、その時々で敵として想定している存在はいるし、それが米国政府のような国家権力だったりもするのだが、彼にとって「自由」というのは権力の抑圧とは関係なく確立されるべきものなのだろうし、それでこその free であり、RMS が原理主義者たる所以なのではないだろうか。

 ここに至って山根信二さんが「ストールマンが反体制運動の敗北感をきっかけにフリーソフト運動をはじめたというのは間違いだ」と書かれていたことに合点がいったような気がするのだが、これは僕のような英語を知らない人間の浅はかな類推かもしれない。そうでなくても、MAQ さんが書かれるように、米国人は "free" という言葉がホント好きだしね。


 「排山倒海Linux」の記述を鵜呑みにしたせいで間違ったところがもう一箇所あって、X Window System のことを、はじめ「X-Window」と書いてしまっていた。これについては複数の読者から「man X したまえ。悔い改めよ」と注意された。X の正式名称に関しては以前あるメーリングリストで議論になったときにちゃんと読んでいたので言い逃れはできない。

 ついでに書いておきたいのだけど、文中の(特に今回のような技術的な記述に関する)誤記の訂正というのは、どんな些細なことでも嬉しいので、遠慮なくメールで指摘していただきたい。これは自分がウェブページを作るまで気付かなかったことなのだが、本当にありがたいのですよ。


 「自由」のことに話を戻すと、竹田英二さんをはじめとして読者の方とメールのやり取りをする中で自分の考えに整理がついたところもあった。

 ライセンスが議論になるとき、「どれだけ制限があるか」という点が問題になりがちである。ライセンスによる制限をなくす方向でつきつめていけば、パブリックドメインというのが究極なのだろう(日本では著作権放棄はできないらしいが)。しかし、それが「フリー」なのかというとちょっと違うと思う。その問題点は「排山倒海Linux」にも書かれてある通りで、そこではたと思い当たるのが、RMS が言うフリーというのは、日本の甘ったれたクソガキがほざく自由なんてものではなく、山形浩生が「新教養主義宣言」で書いていた「アメリカ人がいろんなレベルで貫徹させている「フェア」の概念」に直結しているのではないか、ということだ。


 GPL にしたって色々と縛りがある。それにあれを一読しただけでは概要を掴むのも中々難しい。しかし、それは FSF が彼らにとっての「フェア」のあり方を突き詰めた形なのだと思う。

 Vine のライセンスについて色々書いたが、ちょうど Vine 2.0 発表(並びにそれに沿ったドキュメントの刷新)前の空白期に重なった不運もあったと思うし、Vine Tool License 1.2 は非常にわかりやすくまとまったスッキリしたライセンスだと思うし、読んでみても特に問題は感じない(GPL だって元は Vine Tool License のような簡潔なものだったのかも、とは思う)。

 しかし、独自のライセンスを決めた以上スッキリとばかりもいかない現実と向かい合わなければならない。でもそれは裏を返せば、日本の Linux コミュニティからしっかりとしたライセンスが生れるかもしれない、ということなのだ。そうあってほしいと思う。何か一つの規範にまで発展すれば素晴らしいではないか。


 GPL は紛れもなく一つの権威だ。Linus 先生が「Linux を GPL にしたことは後悔していない」と折りに触れて言うが、それは GPL という担保によってややこしい問題から逃れられてスッキリした、というところが絶対にある。

 K.I.S.S (Keep It Simple, Stupid) でいければ何もいうことはない。でも「人生を簡単に考えても人生は簡単にはならない」と小林秀雄が書くように、スッキリしたブツがスッキリと解釈され、スッキリと運用につながるとは限らないのだ。とかく人の世は生き難い。


[註] 山根信二さんが日記で、「GNUサイトのどこかでフリーソフトウェア運動におけるfreeとはlibertyのことだ、という話を見たようなきがする。」と書かれていました。調べてみると確かに "What is Free Software?" における冒頭で、

``Free software'' is a matter of liberty, not price. To understand the concept, you should think of ``free speech'', not ``free beer.''

 としっかり liberty という単語を使って宣言されてます。つまりここでの僕の推測は全くハズレでした。誤解なきように。


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初出公開: 2000年02月11日、 最終更新日: 2001年07月01日
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