フリーソフトウェアにおけるライセンスの意義


本文章を公開後、Project Vine の竹田英二氏をはじめとして、複数の方から丁寧なご教示をいただきました。特に竹田氏には冷静に応対していただいたおかげで当方の誤解も正せましたし、本文章(と竹田氏のページにも)修正・注釈を加えることができました。本当にありがとうございました。

よって本文章の記述のうち、Vine Tools のライセンスに関するところは、すでに資料的・歴史的価値しか持たなくなりました。その点を考慮してお読みください。

というかさあ、筆者としてはもっと広範な問題に取り組んだつもりなんだけどねえ。

 bit誌2000年2月号に掲載された、電脳雑技団による「計算の迷宮」には色々な意味で唸らされた。タイトルは「排山倒海Linux」で、排山倒海とは圧倒的な勢いで迫り来る有り様をあらわす言葉なのだそうだ。しかし、これは安直な Linux 礼賛文ではなく、オープンソースが持つ問題点への鋭い指摘を含んでいる。

 確かにこの文章のはじめの方で書かれるように、今やカリスマとなった Linus 目当てにキーノートスピーチに集まる人達のうちの何人が「フリーソフトウェア」と「オープンソース」の違いが分かっているだろう。かく言う当方だってそれ関係の文章を翻訳しながらも、自分が果たしてちゃんと運動の本質を理解できているだろうか、と不安になるときがある。

 しかし、当事者達の間でも見解の著しい相違があるのは知っておくべきだ。例えば「オープンソースの定義」の主著である Bruce Perens にしても、オープンソース・イニシアティブの役員の辞任に際して書かれた「今こそフリーソフトウェアについて再び語るべきときだ」を読むと、彼の中では「オープンソース」というタームは、飽くまで「フリーソフトウェア」を非ハッカー社会に浸透させる一つの段階という認識しかなかったようだ。それは今ではオープンソースの伝道師となった Eric S. Raymond(以下 ESR)の意図とは明らかに異なるだろう。ましてやそこに Richard Stallman(以下 RMS)の(確信犯的な?)ブチキレぶりを加えるなると議論が紛糾するのは必至である。

 フリーソフトウェア/オープンソース界の大物が揃って執筆した「オープンソースソフトウェア」(オライリー)を読み、読み物としての面白さは感じるが、主張の不統一に困惑させられたという人は多いだろう。「出口王仁三郎と中山みきと池田大作と庭野日敬と麻原彰晃が一堂に会したような本」という評には笑ってしまったけど、当事者の間でも混乱があることは確かであり、彼らのスタンドプレイやケンカばかりに目を向け、情緒的な文脈で理解しようとすると本質を見失ってしまう。

 というか、人間の反目とはまったく関係なくソースコードが独立して存在することこそがフリーソフトウェア/オープンソースの素晴らしいところであって、本当に問題なのは、そのソースで何ができるのか/できないのか、ということなのだ。


 前述の「排山倒海Linux」ではそもそもフリーとはどういうことであるか、という問いかけがある。西洋において民衆が血を流して獲得してきた「自由」の概念を日本人は真に理解できてない、という主張は多分正しいだろう。そうなると RMS が語る「フリー」についての理解も、日本人は分かった気になってはいても今なお実は全然おぼついてないのかもしれない。確かに日本ではそれを愚弄するような書籍・雑誌記事が幾つも存在した。

 もはや歴史的な負の遺跡といえる「Linuxお気楽・極楽インストール」(丸池樟著、カットシステム)などその最たる例で、この本はインストール本自体としても劣悪なシロモノなのだが、第二刷から削除された FSF を乞食呼ばわりした言説を読むと、「「フリーソフトウェア」が「オープンソース」より好ましい理由」にある、フリーソフトウェアという言葉が持つ両義性は日本語など他の言語では区別可能なんだけど(日本語だったら「自由」「無料」という二つの単語で使い分けできるでしょ、一応)、という記述を読んでも、RMS に対して恥ずかしいような情けないような気持ちになる。

 RMS だって日本人の無理解をちゃーんと知っている。竹内郁雄氏や岸田孝一氏を指して、「彼らは別だ。彼らは日本人ではない」と RMS が苦々しく語ったという話も、同じく五年くらい前の bit 誌の「計算の迷宮」に載っていた有名な話だ。


 ただ「排山倒海Linux」で述べられている自由についての問題点というのは、これまでの RMS の主張の域を出ていないように思う。それはそれでいいのだけど、ESR が例えば「黙ってソースコードを見せな」で主張しているのは大体のところ、『いや僕だって「自由」については重要だと考えているし、それを状況に応じて熱心に語ってもいる。でも RMS の原理主義はハッカーにはとても魅力的なんだけど、非ハッカー社会に対する伝道にはずっと失敗してきたじゃないか。OSI の活動は FSF のそれに従属も敵対もしない。とにかくソースをオープンにするということで得られるメリットに光をあてたい』といったところではないだろうか。

 その姿勢というのは、ChangeLog に掲載された Dirk Hohndel と Jeremy Allison へのインタビュー記事からも感じるもので、前者は XFree86 ProjectS.u.S.E の副社長、後者は VA Linux に籍を置く Samba の主要開発者、という風に立場を異にする二人なのだが、両者とも自らをオープンソース運動に位置づけている。

 「自由」の理解について日本人と欧米人の間の理解の落差があるというのはその通りだろう。しかしそれならどうして「自由」を理解し、GNU の功績も認める西洋人の彼らが「オープンソース」に肩入れするのか。Jeremy Allison は語る。

僕は、Richard がハッピーだという世界になれば本当にいいと思う。だけど、Richard が僕らにやってほしいと思っているやり方では、その世界を実現させることはできないと思う。Eric のやり方でいけば、その世界を実現させることができると思うんだ。

 結局のところ、オープンソースに問題があるとすれば、「自由」そのものの理解云々と言わなくても、そのソフトウェアによって貫徹しようとする論理性が(その党派性・宗教性も含めて)見渡せるライセンスの問題に帰着可能のはずだ。そうした意味で、「排山倒海Linux」で示される例(X Window System)よりも現在の方が考えられたものになっているし、その変遷もまたフリーソフトウェア文化史の一章を当てられるべき道程なのだから、パブリックドメインを例にして「オープンソース」運動は難詰するのはどうかと思う。

 ESR が「オープンソース」と言うとき、それは担保となるライセンスが基盤にあることが自明になっている、というかライセンスが「オープンソース」の基準に適合したものかどうか審査・認定するのがオープンソース・イニシアティブの主要な仕事の一つなのだから。そして、APSL 1.0 に対して誤った認定が下された(と僕は思う)ときには、ハッカーコミュニティから実際に批判も浴びている。これは邪推だが、RMS にしてみればソースコードのみならず、自分達が苦心して作り上げてきた GPL というライセンスまでも利用されている、という意識があるのかもしれない。


 しかし、である。そこでもう一度日本国内に目を向けると、ライセンスというものの意義を考えることなく生半可な認識でオンラインソフトウェアを解説する「専門家」がのさばるのが現実である。著作権情報センターという社団法人のサイトにある「フリーウェアは著作権を放棄したものと考えてよいのでしょうか」をご覧頂きたい。Linux 関係者の日記で知ったページなのだが、いやはやこれが凄まじいシロモノである。

 まずオンラインソフトウェアを無償のものと有償のものの二元論で語ろうとするところから稚拙なのだが、ソフトウェアを無償で公開する意図をこの文章では以下のように分析してくれている。

無償とすることによってこのソフトを広く普及・伝播させ、費用の回収および収益の獲得はバージョン・アップの際に有償にしようと図ろうとしている場合が多いと考えられます。

 Windows や Macintosh のオンラインソフトにバージョン・アップの機に有償にする場合があるのは認める。しかしそれにしたってそんなに一般的か? GNU コードベースでなくても、我々がフリーソフトウェアと呼ぶソフトウェアには上のモデルは全く当てはまらないし、ソフトウェア作者の最終的な目的を利益の回収と捉えているのが薄汚い。ソフトウェアを作ることの目的も動機も取り違えているし、企業モデルのフリーソフトウェア/オープンソース開発にも適合しない。つまり、全く的外れなのだ。こうした誤解しか招かないような有害な講釈には僕も断固として抗議したい。

 上の議論が、Windows のシェアウェアしか知らない、もしくはライセンスというものを意識したことのない初心者のユーザが言ったことだとしたら腹は立たない。問題はサイトの性格・影響力もあるし、何よりこれを書いたのが青山学院大学で法学部の教授をやっている半田正夫という、著作権審議会なんかにも名前を連ねる紛れもない著作権の専門家であることだ。

 法学部教授がソフトウェアの世界について精通していなければならないという法はない。しかし、フリーソフトウェアの人間が作者の自由、並びにユーザの自由を守るために苦闘しながらライセンス体系を確立してきたのと比べると、余りにも不勉強ではないだろうか。ネットワークやソフトウェアと著作権の話を非常に解り易く解説した文章を多数書いている法政大学の白田秀彰氏のような人は少数なのだろうか。


 しかしながら、専門外の人間の無知をあげつらってばかりもいられない。例えば Vine Linux の Vine Tools なんてどんなものだろう。僕は現在自室の PC も会社の PC も Windows 95 と Vine Linux 1.1 を共存させている Vine ユーザーなのだが、ChangeLog のレポート(99年12月3日)でライセンスの変更が伝えられ、不勉強にもはじめて Vine Tools のライセンスをちゃんと読んでみた。

 修正以前のライセンスは Vine Linux General Public License 1.1 の中の「4 Vine Tools の再配布」で読むことができるが、これがよく分からないものだった。何なのだろう、「全く関係ない位置」って。/Vtools みたいなディレクトリ作って、ということですか? でも、どうしてそれが「個別にインストールされることにより、その存在をアピールする」ことになるのだろう。このライセンスについては、Project Vine の人も、「ライセンスに関しては、影響を何も考えてなかったのでは? もしくは、想像力の欠如?」と認めているくらいである(この投稿は現在は削除されているようだ)。

 以上は飽くまで修正以前のライセンスの話だ。アップデートされた Vine Tools License 1.2 では配布形式、改変の自由がはっきり明記され、一件落着である・・・と書きたいのだが、これも正直言って僕にはよく分からない。

 大体上の 1.2 ライセンスの URL にしても、Vine のサイトからはリンクされておらず、Vine Tools の新ライセンスについての言及が全くない(と思う)。これを知ったのは Kondara MNU/Linux の掲示板での Vine Tools 作者の竹田英二氏による書き込みを偶然読んだからに過ぎない。第一、Vine Tools のアップデートを通知する Vine-ML への投稿にもライセンスのことは一切触れられていない。実際に RPM をダウンロードしてインストールするなりアップグレードするなりすればライセンス条項を読むことができるのだろう。しかし、それでも「おしらせ」あたりに真っ先に記述されるべき話題ではないだろうか。少なくとも雑誌の使用ディストリビューション調査で Vine が一番だったよん、といった話題よりも高い優先度で。なのに実際は ChangeLog に竹田氏から情報提供される形で掲載された。何故なんだ?


 この文章を書くにあたり、竹田氏の個人ページを探して見てみると、Vine Tools のページがあり、件のバージョン 1.2 ライセンスが掲載されていた。僕はここに書かれていた竹田氏のコメント[註1]を読み、脱力してしまった。

いろいろと、ブツギをカモシタ Vine Tools のライセンスですが、俺的には次のようにまとめたいと思うっす。

 どうして「俺的」にまとめたものが Project Vine のクレジットで文章化されるんだ?[註2] Vine Tools の決定権を竹田氏が握っているからと言うならば、Vine Tools のライセンスが Kondara の掲示板で議論になった際に、「私の発言は Project Vine とは離れたもの」というのは矛盾ではないか? 「俺的」な判断でアプリのライセンスを決めているじゃないの。あれは言葉の綾で、ちゃんと Project Vine での議論を経て編まれたライセンスだと言うならどうして Vine 本家サイトからリンクされてない? 本家サイトから辿れるライセンスというのは飽くまで再配布の形式を縛る Vine Linux General Public License 1.1 である。それなら新しいライセンスは何に適用されるんだ? 最新版には間違いなく適用できるはずだ。でも、過去にも溯って適用されるの?[註3] やっぱり俺的にはよく分からない。

 多分僕が何か見誤っているのだろう。何か見落としているのだろうし、頭が悪くて理解できてないのだろう。そうあってほしいと思う。上にも書いたが、僕は Vine ユーザである。色々意見はあるが、僕は Vine のかっちりとまとまった構成は好きだ。Vine Tools ライセンスの問題点にしても、Vine Linux の成り立ちの根幹に関わるものなんかではない。でもこうした積み重ねこそがプロジェクトの評価に繋がっていくのではないだろうか。竹田氏は「なぜ既存のもの(ライセンス)を使わなくちゃいけないの? 選択権を開発者が持てるのが「自由」なんじゃないか」とのたまう。その通り。しかし、以上に述べた問題点が(万が一)的外れでないとしたら、その自由を享受するための責務を果たしているとは到底言えない。


 この文章については後記も書きましたので、そちらもご覧頂けると幸いです。


[註1] 現在はこのコメントは当該ページには存在しません。

[註2] この点については竹田さんの説明によると、個人ページの方に公開された文書は飽くまで、Project Vine と他の方々の意見を聞くための「叩き台」であったとのことで、「俺的」という言葉はそうした事情を表現したものだそうです。

[註3] もちろんそんなわけはない(認められたら逆のケースとして後から料金請求されることだってありうるし)。これではイチャモンだ。


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初出公開: 2000年01月30日、 最終更新日: 2002年07月31日
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