スタイルという言葉は、英語のなかでももっとも濫用されている言葉である。だいたい無見識な人間は、”ファッショナブル・ピープル”がスタイルを持っているのだと考えている。だが、スタイルとはとらえどころのない資質であって、上流社会の人間やトレンディの大半は、本物のスタイルなどまったくといっていいほど持ち合わせていないのだ。スタイルは金で買うことはできない。コンサイス・オクスフォード辞典は、きわめて優れた資質としてこれを定義しているが、要は抽象的な性格なもので、持っている人は持っているし、持っていない人は持っていない、ただそれだけのことなのだ。
タキ・テオドラコプロス「スタイルとはなにか?」
昨年二月に飲み会でお会いした際、森山さんがワタシにウェブログについて質問されたのを覚えていますでしょうか。ワタシはいろいろ言葉を並べ立てながら大雑把な解説をし、森山さんのウェブ日記も内容的には(『ウェブログ・ハンドブック』における分類に従えばブログスタイル、フィルタスタイルの)ウェブログの範疇に入ることを説明させていただきました。
ワタシの拙い解説に対して、森山さんは「感想としては、僕が日記で書く『ふーん』という感じですね。つまり、どうでもいいという感じで」といったことを言われました。
それを聞いてワタシは、苦笑いしながら、正直嬉しい気持ちになったことを覚えています。そうなんです、別にどうでもいいのですよ。必然性を感じないのなら、興味もないのに興味のあるような振りをする必要はない。
しかし、少し前に森山さんの日記を読んでいて、「僕もウェブログなるものをすなるなり、ということで、あるサイトでいちおう作ってみた」という記述を見つけ、今度お会いしたら後ろから首をしめてやろうと思っていると(冗談です)、『ウェブログ・ハンドブック』刊行直後に、「yomoyomoさんは、なんでそんなにウェブログが好きなんですか?」という質問をいただきました。正直に言いまして、この単刀直入な質問は、当方にとってあまりにも破壊的なもので、質問をいただいてからお答えするのにあまりに長い時間がかかってしまいました。
さて、結論から言いますと、ワタシは特にウェブログが好きということはありません。『ウェブログ・ハンドブック』の訳者ではありますが、ウェブログのエヴァンジェリストではありません。著者の Rebecca Blood の見識には多大な敬意を払っていますし、多くの点で同意しますが、彼女の意見に全面的に賛同している、ということもありません。
ワタシは以前から一貫してコンテンツ至上主義者です。良質なコンテンツがあれば形式は何でも構いません。そうした意味で、良質なコンテンツを提供するウェブログはもちろん好きですし、そうでないウェブログは読みたくありません。
それでは良質なコンテンツとは何か。もちろんそれはワタシにとっての、ということになりますが、知的好奇心を刺激してくれる文章、役に立つ技術資料、暇つぶしになる豆知識(今風に言えばトリビア、でしょうか)、思わず笑ったり唸ってしまう芸のある文章、おもしろ画像……大枠では他の人とあまり変わらないと思います。もちろん、細かく見ればワタシ自身の嗜好性が浮かび上がるでしょう。例えば当方はソフトウェア技術者ですから、やはりコンピュータ、インターネット関連の話に一番先に目が行きます。アニメ関係にはほとんど興味ありません。ガンダムにも興味がありません。坂口安吾、クリストファー・ウォーケン、羽生善治といった人名には反応しますが、ニューアカ、1980年代ブーム、バカの壁といった言葉には反応しません……というように細かく見ていけばいろいろありますが、やはり大枠では他の人とさほど違いはないでしょう。
ウェブログは基本的にそのフォーマットを指すものであり、特定のツール・サービスを指すものではありません。そうしたフォーマット自体に愛着を感じる人もいるでしょうし、そのフォーマットをうまく活かしたサイトは、当然ながら好きです。
また例えば Rebecca Blood は、ウェブログコミュニティへの愛情を隠しません。そしてそのコミュニティに対する熱意が、『ウェブログ・ハンドブック』を書く原動力になったのは間違いないでしょう。しかし、ワタシにはその種の愛着はありません。
以上が一介のウェブユーザとしての回答ということになりますが、この一年ウェブログにここまで関わることになった説明にはなっていないかもしれませんね。
やはり、『Wiki Way』を翻訳したことが大きかったと思います。ワタシはあの本の中で一年間生活したため、ウェブというメディアについていろいろ考えることが多かったということです。Wiki は主に共同作業に利用されるツールですが、『Wiki Way』翻訳作業後半あたりから、徐々に個人によるパブリッシングのほうにワタシの興味が向かっていきました。『Wiki Way』の反動、と書くと何か Wiki を悪く言っているようですが、当方の元々の志向性もあると思います。
「I can't blog」を書いたのは一昨年の11月ですが、その半年前ぐらいからぼちぼち情報を集め始めたと記憶しています。その頃読んだ、HotWired Japan の記事「人気急上昇中の「ウェブログ」とは」は、以下のような文章で始まります。
ウェブの草創期から存在する非常に面白いサイト形式「ウェブログ」の人気が急上昇しており、「コンテンツ至上主義」が蘇りそうな兆しが見える。
これは別の文章でも書いたことですが、必ずしも Wired のウェブログ記事は全面的にブロガーに支持されたわけではありません。が、この記事を読んだ時点で、「コンテンツ至上主義」の文字に当方が強く惹かれたのは間違いありません。そして実際、海外のサイトから情報を得ようとして、ウェブログサイトにあたることも多くなっていました。これはウェブログ周りの話を一つ文章にでもまとめられるかなと思ったのです。
そのままいけば、ウェブログについてのまとめ文章を一つ書いて終わりとなっていたかもしれません。しかし、そうだとしても、その文章のタイトルは、やはり「I can't blog.」だったでしょう。
このあたりに、ワタシがずっと感じてきたジレンマがあると思います。ワタシは海外のいくつかのウェブログサイトを面白いと思い、また情報源にしてきました。しかし、ウェブユーザとしての興味、こういうのが紹介できれば面白いだろうなという気持ちと、YAMDAS Project という場末のウェブサイトを運営する雑文書きが考える自分のサイトのあるべき姿は、必ずしも一致しませんでした。
そして、ワタシは昔からある日本のウェブ日記に対してもアンビバレントな感情があります。ワタシは以前、自分が『Wiki Way』の訳者あとがきにウェブログの名前を出したのは、tDiary コミュニティのことが頭にあったと書いたのですが、当方は外部からの目を意識した文章のほうが好きです。そうしたどちらかといえば外向きなコミュニティに海外のウェブログの流れを接続できれば面白いと考えたのです。
しかし、実際には blog という言葉は、非常に不愉快な形で取りざたされてしまい、一時的に(現在も?)blog という言葉が恥ずかしいものになってしまいました。その後遺症は、未だワタシの中に残っています。この文章を書くのに尋常でなく難儀しているのもそれが間違いなく影響しています。
もっとも、海外においても Why I Hate Personal Weblogs! という愉快なウェブログ批判が書かれており、「Blog」という言葉がむかつく、お洒落気取りかよ、と吐き捨てられており、思わず笑ってしまいました。やはり海外でも未だ over-hyped な文脈でその言葉を多用する IT ゴロもいるのでしょう。
僕が漠然と考えていたのは、できるだけ包括的に、リベラルに海外の流れを日本の流れに接続することでした。例えば、森山さんは以前「研究者の方々へ、ウェブ日記のすすめ」という文章を書かれていますが、僕が考えていたことも、森山さんの文章に通じると思っています。例えば海外でも、LonghornBlogs によりマイクロソフトの開発者の顔が見えやすくなったという事例があります。これなどまさにそうでしょう。
ウェブログをウェブログたらしめる条件は結局のところ、最新のエントリがページの最上部に掲載され、エントリはそれなりの頻度で更新され、あと特定のエントリにリンクできるよう permalink(永続リンク、常置リンク)が与えられるといった程度に集約されます。これらの条件はひどく基本的なものですが、ウェブというメディアにおいて publish を行う最適なフォーマットを模索するうちに結局こうなった、というのが多分正しいでしょう。
時間軸による分類こそが、実は情報整理法として効果的だという話は、思えば野口悠紀雄の『「超」整理法』にもあった話ですし、これは書いていて思い当たったのですが、品川駅前のアンミラで増井俊之さんが話されていたファイル管理法もそういった話じゃなかったでしょうか。
ワタシはそのように、ウェブログというものに新規性よりも、まずウェブというメディアにおける本質性を見ます……と書くと何か大げさですが、早い話いろんな用途に使えるということです。5年前ならいざ知らず、もはやウェブログは、狭い範囲に留まる言葉ではありません。個人ニュースサイト寄りのウェブログもあれば、ウェブ日記寄りのウェブログもある。一方で現在コミュニティサイトのフォーマットは、以前からあった掲示板関係を除けば、その多くはウェブログのそれになっています。ショッピングサイトにだって使えます。
それを未だに、「ウェブログは○○なんかとは違う」とか「○○しないと blog じゃない」とか排他的なことを言い立てる人間にはうんざりします。ワカメと言ってやれ、という感じです。
ワタシが『ウェブログ・ハンドブック』を訳してみたいと思ったのも、その本質性ゆえです。大森望さんも書かれている通り、あれは読む人が読めば、何だ海の向こうでも同じことをやってきたんだと思うものです。
そして、そこに書かれているアドバイスの内容自体、至極基本的なものです。森山さんは「この本の「ウェブログ」というところを全部「ホームページ」に置換したらどうなるんだろう」と書かれていますが、ほとんどそのまま通用するでしょう。そしてそれが、この本の真っ当さだとワタシは考えています。
別にウェブログという枠で考えたからといって、これまで許されなかったものが一気に許されるようになるものではない。今までできなかったものが全部できるようになるわけもない。個人のウェブログは、飽くまで個人サイトの一部なのだから、その可能性も制約も、多くはそのまま残るわけです。
詳細は後述しますが、ワタシは、著者の善導的な意見にそのまま賛成するものではありません。しかし、原書を読んだ2002年末〜2003年はじめの時点で、これからウェブログ、blog の名前の下に、新しい層が個人サイトを始めるであろうこと、既存ユーザの一定数がそれを利用してサイトを再構成することが読めていましたので、そうした層に読まれるべき本ではないかとワタシは考えたわけです。
もっと正直に書くなら、「これは受ける」という読みがあったことを白状しておきます。実際には、残念ながらそうはなりませんでしたが。それについてはいろいろ思うところはありますが、責任の一部は紛れもなく訳者であるワタシにもあるのでしょう、とだけ書いておきます。
さて、ウェブログ作成にツール・サービスを利用することがほぼ前提条件となった現在も、上に書いたことは基本は変わりません。
森山さんはウェブログツールを使わない理由を書かれていますが、同じように感じている人たちは(特に日本人に)多いと思います。確かにツールが書き方を決めるという面はあります。
ただ、『ウェブログ・ハンドブック』にも書かれてあることですが、Blogger を利用するウェブログにはウェブ日記寄りのサイトが多く、必ずしも、最初にタイトルがあり云々という形式を採っていません。例えば、『Blogging: Genius Strategies for Instant Web Content』というウェブログ本の著者である現 Google の Biz Stone のサイトなど、その典型でしょう。そうそう、いつの間にか日本語訳も出ていた『Salam Pax』の元サイトである Where is Raed ? などまさにそうですね。あと blosxom などをほぼ日付単位で使っている人もおり、普通に便利なツールとして利用できるなら、利用すればよいだけの話だと思います。
逆に言うと、今日本では一部の blog ツールの情報ばかりが流通したために、それらが有する機能性が必要不可欠に思われているところがあります。もっと多様性があってよいと思います。例えば前述の Blogger や iBlog など、HTMLアップロード型がしっくりくる既存ユーザは多いと思うのですが、現在のサーバサイド偏重、あと「コミュニケーション」とやらを無条件に善とする風潮には不満を覚えます。
また既存のウェブ日記サービスが、自分達が抱えるユーザ層に本当に必要とされているか見極めないままに TrackBack などの機能に盲従しているように見えるのは何か違うように思います。
少しネガティブなことを書きましたが、ウェブログツール・サービスを利用することがプラスになった人は間違いなく多いでしょう。そして、得たものも人によって違うと思います。その多様さは当然のことです。
何よりサイト作成の敷居が下がり、また以前よりもはじめから多くの機能が使えることに喜んだ人は多いでしょう。同じく既にウェブサイトを持っている人にとっても、純粋にサイト管理に要する労力を省くのに利用される例もあるでしょう。また森山さんとは逆に、既存のサイトインタフェースになじめず、ウェブログツール・サービスがはじめてしっくりくるサイト作成の準拠枠になった人もいるでしょう。
更に一歩進んで CMS(コンテンツ・マネージメント・システム)としての機能を求める人がウェブログツールを採用する場合もあります。上で時間軸による分類について少し書きましたが、ツールを利用することで、例えば内容別の分類でコンテンツに横串が通せます。それなど初歩の話ですが、フロー型の情報とストック型の情報の管理・連携が課題なのは間違いないでしょう。個人的には blog と Wiki が個人サイト構築の両輪になればと思いますが、CMS としてのウェブログツールでかなりのことがカバーできるようになっています。はてなダイアリーのキーワード機能なども、そうした試みの一つだとワタシは考えています(十分に成功しているとはいえませんが)。
そしてワタシは、『ウェブログ・ハンドブック』の筆舌尽くしがたく読み難い「訳者あとがき」の中でパーソナルウェブサービスという言葉を使っていますが、ウェブログツールの普及とともに RSS などのメタデータが普及し、それによりウェブログツールが個人を empower するインタフェースになっています(特に上級者ユーザにとって)。現在ウェブを利用したユニークなサービスが、ウェブログコミュニティ周りで実装されているのは、共通基盤としてのメタデータ(いい加減話がぐだぐだになってきたので以下削除)。
しかし、以上は飽くまで道具(ツール)の話に過ぎません。いくら高機能な道具を使おうが、その中身の品質を保証してくれる道理はありません。ワタシは技術者ですから、そうした道具・手段自体を面白く思い、情報をフォローしたりします。でも、大方のユーザには技術自体はどうでもよく、それが便利に使え、役に立つかどうか、それだけです。重要なのは、その人にとって最適な、一番力を発揮できるフォーマットを選択できるかどうかです。それがウェブログであればそれを使えばよい、そうでなければ使わなければよい、ただそれだけの話です。そして、読み手にとっては、そのサイトのコンテンツが面白いかどうか、それだけです。
重要なのは選択肢の幅が広がり、敷居が下がることで、各人にとって最適なフォーマットが選択しやすくなることです。僕がウェブログについての文章を書こうと思ったとき頭にあったのはそれでした。
もっと突き詰めれば、当時ワタシが望み、そして今も変わってないのは、自分の「スタイル」を持った書き手の文章をもっと読みたいということです。ここでの「スタイル」とは、「フォーマット」や「形式」といった言葉でそのまま置き換えられないもので、見せかけとは反対のものです。ワタシは、もっとスタイルを持つ人たちのコンテンツを享受したいのです。
さて、ウェブログサービスが起爆剤となり、新規ユーザがどっと増えれば、それに応じてワタシが望んだ通り、スタイルを持った書き手の文章が、その書き手の数に比例して増えるはず……とは、ワタシは実はまったく思っていません。
そこが Rebecca Blood とワタシとで考えが違うところです。彼女は『ウェブログ・ハンドブック』の中で、「誰しも才能があり、独創的で、語るべき重要なことを持っている」という Brenda Ueland の言葉を引用しています。しかし、ワタシはそうした物言いが好きではありません。
そう考えるのは、ワタシの人間を見る眼が暗いのがあるのは間違いないでしょう。しかし、「スタイル」を持った人が少数であるように、皆が読み手を楽しませるコンテンツを生み出せるわけはないのです。
しかし、そうだとしても、何より表に出てこない限りそれすら判断しようがない。森山さんの言葉を借りるなら、集団規模が大きくなってくると、意味が変わってくる、とワタシも思います。これまでネット上に出てこなかった声がどんどん表に出るようになれば、それで変わるものもあるでしょう。ワタシがウェブログを媒介として望んだのはそういうことです。
今や blog ビジネス花盛りといった感じで、「blogバブル」と揶揄されたりもします。この言葉を使うと、『Bloggers!』の表2表3を広告で埋められなかった担当編集者は、フラストレーションでテニスラケットを振り回しはじめるに相違ありませんが、いつぞやのビットバレー的雰囲気を感じる人が多いのは確かなようです。
率直に言って、当方はそうした乗りは嫌いで、できるだけ関わりたくはありません。もっとも騒いでいる連中に限って分かっておらず、実際にやっている人たちは冷静なんでしょうが、いずれにしろワタシが関われる余地はもう残ってないんじゃないでしょうか。再び場末の雑文書きに戻るだけです。
以上が森山さんの問いに対する回答足りえているかどうかは分かりませんが、ただワタシは自分が見るウェブという場を面白くしたかっただけであること、そして当たり前ですが現実的には何の力にもなれなかったということ、そして何より、この文章は長すぎるというのは確かなようです。