翻訳を巡ってだらだらと書いてみる(3)


  前回から少しインターバルが開いたが、今回は今年2001年に翻訳した文書について、だらだら書かせてもらう。

このことから、彼もやはり人の子なんだと我々も思うわけだ。(Eric S. Raymond「The Rampantly Unofficial Linus Torvalds FAQ 日本語訳」より)

 Linux を巡る状況について「ブーム」と言う人もいれば、「バブル」と罵る人もいた。いずれにしても、今ではその言葉の後に続くのは、「〜は終わった」というもので、あまり景気がよいとは言えない。

 そうした意味で、今年上梓された Linus の自伝「それがぼくには楽しかったから」は、日本でも予想通りそこそこ売れたが、同時にどこか白々しい空気もともなっていたように思う。

 そうしたいくぶん寒い雰囲気の中で、Linus という人のバランス感覚が救いになっているところが間違いなくあると思う。例えば、彼は「それがぼくには楽しかったから」のプロモーションで今年来日し、かなりの数のインタビューを受けていたが、その受け答えの地に足の着き具合とともに、彼の過剰な迎合や煽りを漂白するバランス感覚が、ある種のリトマス紙としての役割を果たしているのを実感できた。SPA に掲載された久夛良木 SCEI 社長との対談は、ぜーんぜん面白くなかったが、多分あれは周りのスタッフをがっかりさせたと思う。あの組み合わせが実現した時点でものすごく期待も盛り上がっただろうし。でも、あの対談のツマラナサ加減に、僕はむしろ好ましさを感じた。

 「もし Linus がバスに轢かれたらどうなるの?」というのは、Linux における有名な FAQ である。それに対しては、「そうなっても大丈夫だぴょん」というのが模範回答なのだけど、本当にそうだろうかと最近になって不安に思えてきた。Linux プロダクトがかなり成熟しつつある現在になってそう思えるのは、逆にかなりマズイことには違いない。これが僕個人の杞憂なら良いのだけど…

 ちなみに上に挙げた一文は、個人的に忘れがたいもので、それはこの一文の訳を、結城浩さんに誉められたからである。僕の訳が本当にそれに値するかは僕には分からないのだが、こんな素敵なことってそうあるものではない。

実のところ、景気低迷には効用が一つがある。その間、IT 部門やソフトウェア・ユーザは一般に、経費を切り詰めるプレッシャーを受ける。それにより、低コストでフリーなソフトウェアがより魅力的になる。(Eric S. Raymond「苦難のとき」より)

 日本では勿論のこと、アメリカでも目下景気減速真っ只中である。Linux 企業も例外ではない…というか、かなりその煽りをくらったニュースばかりが続いている。Linux に関するエンタープライズ分野のニュースで景気が良い話は、IBM がどうしたとかいう大企業絡みのものばかりで、本流(?)の Linux 企業がニュースになるのは、暗い話題ばかりだ。

 特に「Red Hat とともに、オープンソース・ビジネス・コミュニティの二大先導者の一つである」はずの VA Linux Systems は、取締役でもある ESR がこの弁解を書いた以降も、ハード部門からの撤退、プロプライエタリなソフト販売への方針転換などかなり苦しい。「もし不況が、我々の目をドル記号からそらし、仕事にしっかり戻るようにするだけなら、それこそが結局のところ、我々にとって最良のことなのかもしれない」という文章も、IPO 成金の記憶すら薄れていく現在からすれば、ただ空しい(オイラにとっちゃ、元からそんなのに全然縁がなかったんだけどね!)。

 しかし、上に挙げた文で主張することが本当なら、現状は寧ろ好機とすら言えるはずだ。マイクロソフトのサーバ製品のセキュリティホールについてのニュースが、あいも変わらず伝えられるくらいだし。

 今更生意気にも書かせてもらうなら、Linux 企業が提示するディストリビューション/ソリューションの価格設定は本当に安価なのだろうか、という疑問が以前から僕にはある。企業努力は十分なのだろうか。現在の「悪い」ニュースが、健全な淘汰のあらわれなら良いのだけど。

しかし、フリーソフトウェアは、どんなユーザでも変更可能なコードなので、それ故に法の代わりに使うことはできない。(Eben Moglen「コードが法にならない場合」より)

 「翻訳を巡ってだらだらと書いてみる」シリーズを書く中で、自分でも発見があった。それはレッシグの「CODE」の議論の重要性である。何を今更、とは自分でも思う。しかし、僕という人間の感性はかなり鈍いようで、重要性は察せられても、どうも実感がわかずにいた。それを過去を辿るうちに気付くとは、まったく情けない。

 でも、現状はどうだ。「ウェブをてなづける」といった文章を読んでも、状況はますます「CODE」的というか、レッシグが言及した命題に向かい合わざるをえなくなっている。

 日本だって例外ではない。というか、この文章を書いている現在(2001年夏)2ちゃんねるが直面している崩壊騒動というのは、商業が統制するネットという命題に留まらず、ネットコミュニティのあり方を含めて、この問題の極めて重要なサンプルになる可能性が高い(事実、哭きの竜さんの提言は、匿名性の管理という問題も含め、レッシグの議論の射程内にかっちり入っている)。

 上に挙げた Eben Moglen の文章は、フリーソフトウェアの人間の立場から、レッシグの議論への懐疑を投げかけているが、先日の LinuxWorld カンファレンスにおけるレッシグの講演を伝えるニュース記事を読むと、フリーソフトウェア・コミュニティの実力行使が必要な段階まで来ていることが分かる。

 そこで再び話を日本に戻すと、Slashdot Japan で「オープンソースに圧力団体は必要か」という議論がようやく出てきた。これも現状を受けての必然的なものだろう。が、実際にアメリカにおける EFF のように組織化がされるかというと、そこまで日本のオープンソース・コミュニティは成熟してないのかもしれない。日本 Linux 協会の前会長である生越昌己さんも、「いわゆるコミュニティの汚いところも散々見せられちゃった」と洩らしていたし(まあ、氏の場合他にもいろいろあるのでしょうが)。せいぜい宴会での意思決定止まりか。

 本来なら、山根信二さんが立ち上げようとされていた CPSR 日本支部あたりがその役割に一番近いところにあったはずである。しかし、山根さんにしても、なかなかそちらの方に注力する余裕はないようで、難しいところである。

これこそが GNOME のやり方なんだ。誰も一方的に支配しない。誰もがあまねく貢献する。そしてその貢献は、コードであったり、デザインに関する専門知識であったり、不安でさえありうるのだ。(Miguel de Icaza「我々は仲良くやってくこともできないのか?」より)

 僕がここで注目したいのは、貢献の形態として「不安」を挙げているところだ。コミュニティ内部で、不安や危機意識が共有されてないといけない。何度も書くように、オープンソースを巡る状況は厳しくなりつつある。そこで現実逃避的になってしまうといけなくて、実際、「オープンソース開発者よ、自己陶酔はほどほどに」といったニュース記事を読むと、その危険性を強く感じる。

 その辺見習うべきはマイクロソフトで、あの企業が持つパラノイア体質と、支配に対するキチガイじみた執着とパワフルさこそが、あそこの最大の強みなのだ。少なくとも、そのパラノイア体質から学ぶべきところもあるはずだ。

 まあ、マイクロソフトが支配と搾取ではなく、安全性・安定性に同じくらいの執着を見せてくれれば、ソフトウェア産業は文字通り一変すると思うのだけどね。

フリーソフトウェアのパラダイムは、アイデアを開示させる方法としては、特許よりもすぐれた手段のように思える。(Bruce Perens「ソフトウェア特許 vs フリーソフトウェア」より)

 Perens は手段としてのフリーソフトウェアと特許を比較しているが、そうでなくフリーソフトウェアと特許自体が政治的に絡み合う場面がこれからどんどん増えてくるはずだ。フリーソフトウェア・ライセンスが法廷で験される場面も実際に出てくるだろうし、そこでの対応を誤れば、長期的に大きな打撃を受けかねない。

 例えば、マイクロソフトの .NET 構想のオープンソース版を目論む、Miguel de Icaza が主導する MONO プロジェクトに対して、マイクロソフトが取得した特許を不安視する声がある。そこらへんの立ち位置について、Miguel de Icaza と、Bruce Perens とでは、意見に微妙に距離がある。UNIX にみる世代間の断絶などというレベルに留まらず、「ハッカーにみる世代間の政治的断絶」というものがあるのかもしれない。また MONO に関しては、GNU が主導する同様のコンセプトを持つ DotGNU プロジェクトとの摩擦、とか技術と政治が絡んだところが他にも色々あるわけだ。

 日本の Linux 系ニュースサイト、また日本のオープンソース・コミュニティに対象を広げても、そうした政治的な話題をしっかりと伝えるのが不得手であるように思う。そうした意味で、Linux Weekly News などの海外のニュースサイトに頼るわけだが(個人的には何故か Slashdot 本家は殆ど見ない)、英語を読むのにも限界がある。そこで例によって ChangeLog の復活を待望してやまないわけである。

マイクロソフトが脅威に感じているのは、GPL の対等共有という特徴である。なぜなら、それが彼らの「取り入れて拡張」戦略を無にしてしまうからだ。(Bruce Perens「フリーソフトウェアのリーダーは団結する」より)

 マイクロソフトが最近になって、GNU GPL に攻撃の焦点を定めたのは周知の通りである。フリーソフトウェア/オープンソース・コミュニティからもそれに対する反論が、Perens が書き、大立者達が署名した本文をはじめとしていろいろ出ているが、なかなか決定的に白黒はつかない。

 何かもやもやしたものを抱えていたところに、Deぶan BNU/Linux不徹底入門2001年夏号に収録された、八田真行さんの「GPLなんかどうでもいい」を読み、一気に視界が開けた感じがした。これは是非ご一読をお勧めする。やはりコピーレフトを前提にしないと話が始まらないわけだな。

 さて、ここから文章の内容から離れた話をしたい。僕もこれまで色んな人の文章を訳してきたが、やはり作者によって訳し易い、訳し難い、というのははっきりある。一番数をこなした ESR は、やはり訳し易い部類に入るのだろう。それでは反対に訳し難い人、となると僕は真っ先に Bruce Perens を挙げる。

 僕自身大して英語という言語に精通しているわけではないので、Perens の文章がどうだから難しい、と分析することはできないのだけど、彼の文章を訳すのは骨が折れる。この「フリーソフトウェアのリーダーは団結する」については、早く日本語に訳さなくては、という一種勝手な使命感に駆られて訳したが、八木都志郎さんや dynamis さんの訳文をマージして初めて訳文が一人前になった感じだ。つまりは僕が訳者として一人前以下であるということなのだが、もう彼の文章は自発的には訳さないだろうな(笑)。

 で、更にせっかくの機会なので打ち明けるのだが、訳しにくいどころか、何度か挑戦しながらその度に訳に挫折した人もいる。それは Jamie Zawinski である。歯がゆい思いをしているところに、山形浩生さんが彼の文章の翻訳をはじめられ、それを一読して氏が適任であると確信した。やはりその著者独特の話法、文体を正しく翻訳できないとダメなのだ。山形さんによる2ちゃんねる語風味(笑)の訳文を見ると、それがよく分かる。

プログラミングに興味を持ち、それを楽しみのためにやること。(Peter Norvig「プログラミングを独習するには10年かかる」より)

 僕がやっている翻訳についてたまに、「どうやってああいった文章を見つけてるの?」と聞かれることがある。これには僕のほうが首をひねってしまう。僕は訳する文章を「見つけたり」はしないからだ。興味深い文章が「そこにある」だけだ。興味深いからこそ、それが楽しいからこそ訳す、それだけだ。

 正確にはいくつか分類はされるだろう。そのとき注目されている人のサイトにある文章を順々に訳していくとか(ESR とかはこれですね)、優れた文章でリンクがはられている文章も優れているだろうとあたりをつけ訳してみるとか(Google 的思考万歳! ハイパーリンク万歳! 「FUD とは何ぞや?」「管理職のためのハッカー FAQ」「オープンソース・ゲームをプレイする」はみんな ESR の文章で知った)、LWN など代表的なニュースサイトで取り上げてあった、とか。

 僕に特別な情報源があるわけではない。寧ろ僕などそうした情報に不自由な、事情に疎い部類に入るだろう。でも忘れてはならないのは、「実際に使える役に立つ情報ってのは、九割は秘密でもなんでもない、公開情報なんだ」(山形浩生「CIA と情報処理」より)ということだ。この「プログラミングを独習するには10年かかる」にしても同じことで、これは随分前に Yendot で紹介されていた。つまり、誰でも訳するチャンスはたっぷりあったわけ。

 …などと書いてきたが、僕が翻訳をし、それを読者に紹介することで、読者を驚かし楽しませたいという気持ちがあるのも確かだ。翻訳をするのは何より自分のためである。しかし、読者に共有してもらったところで、その翻訳ははじめて意味を持つのだ。

 僕はまだまだ訳者として未熟だ。Peter Norvig のように、成功のためのレシピなど書けない。しかし、訳者は役者((C)深町眞理子)でいうことで、フィリップ・マーロウを気取り、一つ書かせてもらおう。

 楽しくなければ訳せやしない。読者のためにならなければ訳す価値はない。

自由を求めるキャンペーンの成果は世論次第だ。君のとこの読者にかかっているわけだよ。十分な数の人達が自由を強く求めれば、自由を勝ち取れるだろう。(Juraj Bednar「Richard Stallman インタビュー」より)

 まさにその通りである。世論は大きい。これは誰もが認める。そして、こう言いきってしまうと反論も食らうだろうが、RMS はこの点において長年にわたり失敗し続けている。最近では LWN に、"Let's all beat up on Richard Stallman." なんて記事も載ったほどだし。

 手前味噌であるが、僕が訳した RMS インタビューは、話題も広範に及んでいて、しかも RMS の受け答えも原理的な過激さが薄く、非常に読みやすく受け入れられやすいものだと思う。しかし、インタビューによっては、こりゃついていけんわい、と読んでいて呆れてしまうものも少なくない。

 先ほど「Linus がバスに轢かれたら…」という FAQ について触れたが、今 RMS が倒れたら、FSF という組織はどうなるのだろう。GNU の理念は RMS が望んだ通りに受け継がれるのだろうか。例えば、RMS が中心になった場合の GNU GPL Ver3.0 と、彼抜きで作られた Ver3.0 は同じものになるだろうか。

 そして、である。RMS が臨終を迎えるとき、是非最期の言葉は「リチャード死すとも、自由は死せず」であってほしいなあ、そうだったら笑えるのになあ…などと不謹慎、かつくだらない想像を巡らせてしまうのだが、例え彼がたった今倒れたとしても、彼の業績は不滅である。それは間違いない。しかし、だからこそ彼の現状に目を向けたとき、何やら悲しくもなってしまうのも確かだ。


 さて、いかがだったでしょうか。調子に乗って偉そうなことも少し書いてしまったが、何より書きたかったのは、自分が翻訳した文章の原文の作者達、僕の拙い訳文を改良してくださった協力者の方々、そして何よりそれを読んでくださった読者の皆さんに感謝、ということです。

 これは偶然なのだが、ちょうどタイミング的に、翻訳について一区切りというか、一つの転機になりそうな感じで、そうしたときにこのシリーズを書けて良かったと思う。まもなく公開される訳文が一つあるが、それが(当面での)最後になるかもしれないからだ。といっても「もう二度と翻訳なんかやらねー」というネガティブな意味ではないので、ご安心ください。


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初出公開: 2001年09月03日、 最終更新日: 2002年07月26日
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