yomoyomoの読書記録(2003年下半期)


釜本雪生+くぼうちのぶゆき編著「テキストサイト大全」(ソフトマジック)

 今更という感じもしたが、『ウェブログ・ハンドブック』の訳者あとがきを書くために資料として買って読ませてもらった。本書で取り上げられているサイトには巡回先でないものも多かったので、逆に新鮮でもあった。

 本書が出てまもなく本屋で立ち読みしたときは、正直なんじゃこりゃと思ったものだが、改めて読んでみると、意外にちゃんとした内容になっていると思った。それは「21世紀の町人文化」というテキストサイトの位置付けにも出ているし、内容もそこそこ網羅的だと思う。ただ本書では、テキストサイトを主に日記系としており、インタビューなど見ると個人ニュースサイトは別物と扱われているのは少し意外に思えた。

 初めて本書を読んだとき嫌だったのは、ネゲットという言葉が頻出するいるところで、それ以外にも全体的に、実際にウェブサイトを作っている人にしか通じない狭い本だなと思った(前述の通り、その評価は少し修正された)。でもさぁ、そんなにネゲットしたいかね。ワタシのサイトなんか、ファンレターみたいなメール自体ほぼ皆無なのだが。そうした意味で、「昼のWeblog、夜のWeblog」という言葉を、本書を読んで連想せずにはおれなかった。

 本文の最初に「今更…」と書いたが、本書が刊行されたのは、2002年の7月であり、当方が購入したのは2003年の7月で、一年しか経っていなかった。それで「今更…」と感じたのは、この世界はそれぐらい流れがはやいということである。もうウェブログがどうしたこうしたという話はあまり書かないが、本書にも名前が登場する加野瀬未友さんも書くように、テキストサイトの作り手も普通に便利なツールとしてウェブログツール・サービスを導入すればよいのだろうし、自分に合わないというなら使わなければよいだけの話だ(ワタシだってそうだ)。そうした意味で、本書にツールの話がほとんど出てこないのは、今年出たウェブログ本と対照的で、示唆的である。

 『ウェブログ・ハンドブック』を訳した当方からすれば、アメリカのウェブログ文化と日本のテキストサイト文化の相違点よりも共通点に目が行く(例えば本書にしたって、厳密なテキストサイトの定義があるわけじゃない)。そうした意味で愛・蔵太さん(本書のテキストサイト用語集の一番始めに氏の名前が来る…)が書く、「不特定多数の人間に読まれるようなテキストを書くのは、ある種「放電」。容量の少ないバッテリーではすぐヘバると思う」という言葉は普遍的だし、重要だろう。スタイルはどうであれ、人間が人間を楽しませようと思ったら、才能か労力、もしくはその両方がいるのだ。今は blog バブルなどと言われていて、端的に言って反吐が出るが、今後閉鎖休止状態の blog サイトもどんどん増えるだろう。そうしたときに上記の先人の言葉の重みが分かると思うのだが、いずれにしろ、たかがウェブサイトである。それを忘れてはいけない。


貴志祐介「黒い家」(角川ホラー文庫)

 この手の本はあまり読んだことがなかったのだが、立ち寄ったスーパーで本を安売りしているのを見かけ、他数冊と適当に選んで購入したものの一冊である。やはり本そのものが好きなんですな。この作品については映画化もされているが、そちらの方は未見である。

 本書では保険金詐欺が大きな道具立てとなっている。そしてそれは、例えば和歌山毒入りカレー事件を先取りしていたとも言えるが、本書が刊行された時点でも保険金詐欺事件は多く報道されており、トピカルな題材を選んでいたことは間違いない。著者自身の経験に基づいた生命保険業界についての描写がしっかりしているのも本書の優れた点の一つなのはもちろんなのだが、本書において描かれる「何の罪悪感もなく人(それが我が子であれ)を殺せる人間」に思える事件報道を聞くことが多い今の方が、本書は恐いと思う。そうした意味で未だ読んだことのない人にお勧めできる一冊である。

 本書は純然たるホラーというより、サスペンスに分類される小説なのだろうが、前述の理由で、とても現実的にかなり恐く読めた。精神分析関係の記述などちょっととってつけたようなところがないでもなかったし、特に主人公の兄の死の真相周りの話は特にそうなのだが、この手の小説にはそうした裏付けが欠かせないものなのかもしれない。何より主人公の「察しはいいが行動は間抜け」なところも読者として感情移入しやすかった。

 さて、本書のクライマックスは当然ながらというべきか、主人公と邪悪な存在との対決になるわけだが、その部分を読んでいて、かつて松本人志が映画『ホーム・アローン』について言った感想を思い出した。彼はあの映画について、どうしてあそこまでやって主人公が死なないんだ、という意味のことを書いていたのだ。それをはじめて読んだときは正直なんじゃらほいと思ったものだが、今は松本人志が言いたかったことが少し分かる気がする。つまり本書を読んでいて、こんな対決など主人公がざっくりと殺されればいいのに、そうした方が作品としての完成度は上がるかもしれないのに、と思ったわけである。

 こうした感覚は、やはり異常なのだろうか。


山口瞳「血涙十番勝負」(中公文庫)


加野瀬未友他「Bloggers!――魅力のウェブログの世界にようこそ」(翔泳社)


デジビン「ウェブログ☆スタート!」(アスペクト)

 これも献本いただいたものである。

 標準的な内容の書籍だと思う。ツール紹介、サイト紹介、TrackBack や RSS 周りの話など、他の書籍でも見られる内容である。『ウェブログ入門−BloggerとMovable Typeではじめる』と比べて優れているかとなるとよく分からないが、カバーする情報の範囲など後発の利点をちゃんと活かしていると思うし、コラムまで気配りが利いている。

 何より、blog をやるとどんなメリットがあるのか、blog を上手に運営するにはどうしたらよいのかといった心得に、十分とは言えないまでもちゃんとページを割いているところにも好感が持てた。意外にこれが薄いのだよ。「今 blog が大流行!」という煽りはいくらでもあるし(はぁー)、「これで blog が簡単にできる」という紹介記事もいくらでもある(でも、実は真の意味で簡単ではなかったりする)。しかし、いつまでそんなスタート地点についての話ではしょうがないだろう。

 そういう意味で「ある女の子のブログライフ1週間」という章で、狙いはすごくよく分かる。しかし…25歳のOLさんがいきなり有料サービスの TypePad、しかも英語でのサインアップをもろともせず選択するかね? このあたりいくらなんでも恣意的過ぎるように思う。狙いがいいだけに残念である。

 けれども、実はそうでもないのかもしれない。先日ニフティが TypePad を導入することが報じられたが、他にも続く ISP もあるだろうから、そうなれば件の章もまた生きてくるのかもしれない。

 いずれにしろ今 blog については新しいサービスがどんどん登場しており、ツールのインストール情報などは陳腐化しやすいのは確かで、入門書は本書あたりで打ち止めになるのだろうか。


大崎善生「将棋の子」(講談社文庫)

 『聖の青春』に続いて発表した二作目であり、講談社ノンフィクション賞を受賞している。評判は聞いていたし、何より『聖の青春』が素晴らしい作品だったので、これは買わねばと思いながら、住環境と当方の吝嗇な気質のためになかなか手を出せずにいたところ、気がつくと文庫本になっていたので迷わず購入。

 結論を先に書くと、『聖の青春』を比較した場合、作品としての成功度は、『聖の青春』のほうが上だと思う。個人的な好き嫌いに関して言えば、やはり『聖の青春』に大分部がある。しかし本書は、村山聖というある意味反則な素材に依存していないという意味で普遍的な内容を持っており、また作品が捕えようとした主題は、間違いなく前作よりも大きい。

 本作も舞台は将棋界であるが、主人公は主にプロ棋士ではなく、将棋プロの養成機関である奨励会を退会した人達である。少しでも将棋界についての知識がある人であれば、奨励会が並大抵の難関ではないことはご存知だろう。そのあたりの事情については、まさに本書に詳しいからここでは繰り返さないが、その挫折者に目を向け、彼らに共通する非情な挫折、そしてその後の厳しい人生を交錯させ、一つの作品にまとめ上げた手腕は賞賛に値する。

 本書への不満は、題材となる他者については距離を保てているものの、そこに織り込まれる自らの行動や述懐が情緒過多で鼻につくところだろうか(特に第八章の終わりあたり)。また本書の主人公の一人である成田英二のどうしようもない融通の利かなさ、そしてその星の巡り合わせの悪さが他人に思えず(笑)、読んでいて苛立ってしまい、前作の主人公である村山聖ほど素直に感情移入できないところがあるのかもしれない。

 厳しい挫折、そして挫折後の厳しさを見つめ続けた著者は、最終的に、将棋の本質は優しく、将棋は人間に何かを与え続けるだけで決して何も奪いはしない、という結論に辿りつく。しかし、本当にそうだろうか。僕はこの結論を残念ながら未だ納得して受け入れていない。もっとも、その前に成田英二が明かす、夜逃げ同然に愛する母親の写真を含め合切置いたまま逃げた際、それでも捨てられなかったものを著者に明かす場面は涙無しに読めなかったのも確かであるが。

 そしてもう一点、その最後の場面にも羽生善治の名前が登場するが、その語られ方が清廉なのだな。このように羽生の名前が文章に出る場合、歴代の永世名人と同様、その強さ、恐ろしさの象徴である場合も当然あるのだが、例えば大山康晴などとは違った清廉さを感じることが多いのは、羽生の人徳だろうか。それとも単に僕が彼に世代が近いからそうした情報を多く得ているだけだろうか。「記号としての羽生善治」について誰か書いておかないといけないのではないか。


カポーティ「遠い声、遠い部屋」(新潮文庫)

 カポーティは特に短編が好きで…と書き始めて、彼がものにした(成功した)長編小説となると本書と『冷血』になるわけだが、『夜の樹』ちくまから出ている短編集を愛読してファンのつもりでいたが、前述の長編二つを両方とも読んだことがなかったのに気付いた。

 本書はカポーティが鮮烈にデビューを飾った作品なわけだが、後の短編で見られる北部(都会)を題材にした不安を掻き立てるどこか不条理なところ、南部(田舎)を題材にしたユーモアが、なるほどこのようにある種ゴシック的な設定に起因する「不安、不条理」寄りな形で融合されていたのかと納得した。そしてどこか混沌、曖昧さを残した、またどこか気まぐれな筆致が少年期の不安に密接に結びついている。

 ただ、これをそのまま「青春小説の金字塔」などと真正面から読むには当方は歳を取りすぎてしまっているのも確かで、前述の不安と混沌を畳み込む観覧車の場面など読みどころも多いが、むしろ僕などはランドルフの語りの方に面白みを感じてしまった。

 あと本書を全面的に楽しめなかったのは、個人的な事情で一冊読み終えるのに異様に時間がかかってしまったというのもある。やはり本との出会い、間合いを含めたタイミングって重要なんだよね。


デヴィッド・モーガン「モンティ・パイソン・スピークス!」(イースト・プレス)


ナンシー関「ザ・ベリー・ベスト・オブ「ナンシー関の小耳のはさもう」100」(朝日文庫)

 以前「文春でも朝日でもどこでもよい、ナンシー関のアンソロジーを出しなさい」と書いたが、やはりそうした話は進んでいたようで、文春からは『ナンシー関大全』、朝日からは本書が出た。まずは文庫で出た本書から読んでみた。

 内容的には特典に類するものはまったくなく(文庫版解説もなし)、タイトル通り週刊朝日で連載されていた「ナンシー関の小耳のはさもう」から100本選んだものになっている。

 古びてしまった文章も多いかなと思ったが、あまりそういう風には感じなかった。もちろん選ぶ側がそのへんを配慮したというのもあるのだろうが、彼女の意味の見極め方における視点の揺るぎなさ、筋のようなものが読み取れたように思う。当然ながら、彼女のファンとして嬉しかった。

 ただこういう選集につきものの不満も当然あるわけで、華原朋美を二本も入れるんなら(いやホント、どうして彼女だけ二本入っているんだ?)、連載初期に書かれた野沢直子やビートたけしについての回を入れなさい、などと思ったりもする。

 また逆にいえば、特に新しい発見のようなものはなかった。が、真剣に怒っている文章があるのを再確認できたというのはある。何を今更と言われそうだが、「小耳のはさもう」の最初の単行本における著者あとがきかで、彼女の友人の父親が「このナンシー関というのは、どうしていつも怒っているのだ?」という言葉を取り上げていたのを思い出す。こうした話の後には大抵、「でもそれだけじゃなくてね…」というのが続くのだが、一方で確かに本気で怒っていた文章も確かにあったのだ。


ケビン・D. ワン「ニワトリを殺すな」(幻冬舎)

 この手の寓話仕立てのビジネス書もどきというか、チーズがどうした、バター犬がどうしたといった類の本は話には聞いても実際に読んだことはなかったのだが、本書はなぜか読むことになった、というかただで読まされたというか。

 タイトルにはニワトリがどうしたとあるが、別に動物寓話ではなく、本田宗一郎をモデルとする経営者に銀行から出向した主人公が感化されという話で、時間的には凡そ一日程度の話に過ぎない。

 本書のタイトルに掲げられているニワトリの話は、多くの人がうなずくところであろう。その後に続く話はいささか強引に引っ張ったように読めるところもあるが、前述の通り一日程度の話であまり多くの求めるのは野暮というものだ。

 そうした意味で本書は、飽くまできっかけに過ぎない。読むのに時間もかからないし、ワタシはただで読んだわけだから損した気分にはならなかった。本書を読み認識する(再確認する)「本質」もあるだろう。

 本書のほどほど感を見るにつけ、また本書が売れているという事実を知るにつけ、本というものの今後のあり方というのを少し考えてしまった。最近テレビの情報番組をたまに見て、あの一見お役立ちだがコマーシャルで何度もぶつ切りにされ少しずつしか情報が進んでいかない感じは、いくらなんでも非効率じゃないかと思うのだが、他の人はそう思わないのだろうか。

 この手の情報の伝達は、未だ活字の方が有利である、と思う。しかし一方で、それでも本書に1000円以上払うのはあまり気が進まない。「チーズはどこに消えた?」とか読んだ人はとっくの昔に感じていたことなのだろうが、本書を読んで変な意味で活字の効率性を再確認すると共に、しかしこれはワタシが本に求めるものじゃないよなとも思うのだ。

 全然違う話だが、ようやく実用レベルにきた電子ブック関係も、コンテンツは日本文学名作あたりではなく(もちろん著作権的にそれが楽だというのは分かるが)、こういったビジネス寓話レベル、もしくは「個人の良質なウェブページ+α」ぐらいのレベルを取りこむほうが絶対良いのではないかと本書を読んで思ったりもした。


田口和裕、堀越英美他「ウェブログ入門−BloggerとMovable Typeではじめる」(翔泳社)


勝又清和「つみのない話――投了後の逆転」(毎日コミュニケーションズ)

 「消えた戦法の謎」が面白かったので、同じ著者による本書を図書館で見かけたとき中身をよく見ずに借りてみた。てっきりプロ将棋の投了にまつわる悲喜こもごものエピソードとかアクロバッティングな終盤の妙を読ませる文章からなる本だと思っていたのだ。

 確かに本書にはそういうのも含まれている。しかし、主に終盤の大詰めの局面を題材にしたクイズ集であり、内容は非常に高度であった(少なくともワタシには)。正直クイズ集として読むには難しかった。その程度のワタシが偉そうに語らせてもらうと、将棋を収束させるところが、中級アマチュアにとっての壁なのは間違いない。

 野球の試合にたとえるなら、九回の表を終わってスコアが5対0であれば、逆転は無理だと考えるのが普通だろうが、将棋ではそうした状況からの逆転が結構あったりする。よく言われるのが、有利の方が勝ちきるのが難しいということで、それが将棋の面白さであり、恐さでもある。悪い将棋を辛抱してひっくり返したときの喜びは大変なものだが、一方で逆転負けを食らったときの、あの血の逆流するような感覚はたまったものではない(といいつつ性懲りもなく指し続けているわけですが)。

 さて、本書の主人公と言えるのは、やはり羽生善治である。彼が見せる終盤の妙に、彼が現在の将棋界で最強であり続ける秘密があるのは間違いない。単にたくさん勝っているから最強ではないのである。最も強さを見せつけ、プロ棋士の、しかもトップの人達に恐怖を与える勝ち方をしているからこそ彼は最強なのだ。

 森内俊之の挑戦を受けた第54期名人戦最終局における、周囲を驚愕させた読みきりなどその最たる例である。島朗の「純粋なるもの −トップ棋士、その戦いと素顔−」にも、皆が森内勝ちで疑わない場面で検討を打ちきった後も、どうにも腑に落ちないものを感じて深夜起き出して盤に向かい、明け方になって羽生の勝ち筋を発見する行方尚史の姿が描写されているが、本書においても棋譜を夢にまで見て、羽生が勝ったのと同じ筋を思い出す著者の描写を読むと、将棋ファンとして改めて羽生に対する感謝の念が湧くのを感じる。


クラーク/バラード他「20世紀SF(3) 1960年代 砂の檻」(河出文庫)

 例によってSF初心者にありがたいシリーズの1960年代編である。

 個人的には1950年代編よりも作品としてのバラエティに乏しいようにも思えたが、楽しんで読めたのは変わりない。伝統的なSFの枠組みに従った作品はそれほどでもなかったが、一方でクラーク「メイルシュトレームII」やプラクタ「何時からおいでで」などのワンアイデアを突き詰めたSFの精髄のような短編はやはり面白い。特に後者は、それ自体すごい作品ということはないが、決定的には違いない。

 さて、全14編のうち、特に気に入ったのはバラード「砂の檻」、ラファティ「町かどの穴」、シルヴァーバーグ「太陽踊り」、そしてヴァンス「月の蛾」の四つ。「砂の檻」がバラードの基準からしてどの程度の短編か僕には分からないのだが、これに出てくるトラヴィス、これはワタシそのものだな、と例によって非常に苦い感慨を勝手に味わったということで。この作品の描写から想起したイメージを忘れることはないだろう。

 あとラファティ、狂い過ぎ。最高。

 気がついたのは、「月の蛾」、オールディスの「讃美歌百番」、そしてディレイニーの「コロナ」といった自明なもの以外にも、音楽を重要なモチーフにした作品が多かったこと。編者はそのあたりを意識していたのかもしれない。

 そうそう、ディッシュの「リスの檻」を読んでこれはどっかで見たような…と気になっていたのだが、新山祐介さんの日記ですね。もちろん新山さんの文章よりシリアスだし、あれほど逸脱してはいないのだが、逆に新山さんをこの短編と同じ環境に置いたらどんな文章を書くだろうか…と考えるのは不謹慎ですね、はい。


勝又清和「消えた戦法の謎」(MYCOM将棋文庫)

 double crown さんが誉めていた本で、文庫本になっていたので買ったのだが、これは確かに面白い。勉強にもなった。

 棋書というのは往々にしてそのとき注目を浴びている、盛りを迎えている戦法を扱うことが多く、つまりはそこで展開されている話は「成功」の話が主になりやすい。もちろん俯瞰的な視点で書かれたものもあるが、そうしたものはどこか無味乾燥であったりして、プロがどのような過程で現在の定跡に至ったのか分からないことが多い。他の棋士への遠慮もあるのかもしれない。

 本書が成功しているのは、著者の物怖じのなさが大きいと思う。やはり著者も若かったのだろう。消えた戦法のオリジネータに向かってその理由を直に聞くなんてかなり勇気がいることだ。

 「消えた戦法」という一見ネガティブな題材と裏腹に、そこには様々な棋士の工夫、苦闘、試行錯誤があることを分かりやすく伝えてくれる本書のような本こそプロとアマをつなぐものだと思う。いや、プロの将棋はねちっこい上に、一つの戦法が流行るとみんなしてそればかりという感じに見えるのですな。しかし例えば本書における矢倉戦法におけるスズメ刺し→2九飛戦法→森下システム→スズメ刺しという循環が分かるとプロの将棋の流れが分かったようで嬉しくなる。本書は他にもこうした循環をいくつか見ることができる。

 しかし、ワタシはこの本を読んで少し寒い気分にもなった。ワタシ自身本書で「消えた戦法」認定されている戦法をいくつも未だ好んで採用しているからだ。自分の将棋は、結局のところ早指しでしか誤魔化せないインチキなのだということを改めて思い知らされました。

 本書には前述の中原・米長、そしてその後の谷川・羽生といった名人クラスが登場する。しかし、30台後半から40台にかけて作戦のオリジネータとなった中原・米長と比べると、谷川・羽生にはそうしたものがないわけで、両者とも定跡を完成させる強力な役割を果たしているものの、その点いささか残念に思うのである。

 角頭歩戦法、米長急戦矢倉などある種のロマンチズムを感じさせる米長、もはや誰も真似できない域まで強情さを貫く中原、そして晩年になって素人戦法の代表であった石田流を見事に蘇生させた升田と同じものを、谷川や羽生に期待するのは酷なのだろうか。


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初出公開: 2003年07月06日、 最終更新日: 2003年12月31日
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