本文は lost in translation――なぜそれを訳したのか(1)の続きなのだが、前回から時間経ち過ぎだっての! いや、8月中旬に公開できたはずの文章なのだが、日々の忙しさに追われてなかなかまとめることができなかった。感覚的には、二ヶ月前に公開された文章ですね、これは。
プログラミングについて語る文章を訳すのは楽しい(楽しいから訳す)。同じくプログラミングを嗜む人たちからの反応も多い。それはなぜか考えてみると、それは文章からユーモアとプライドを感じるものが多いからだろう。
山形浩生による『ハッカーと画家』の書評「プログラミングの傲慢なる美学と世界観」でもそれを「いい意味での傲慢さ」と評しながら、また「現実性/実用性とその美学の抽象度との間に奇妙な関係」について触れているが、読んで面白いのはその傲慢さを現実的に昇華してくれた文章である。
この文章を書いた Derek Sivers はインディーミュージシャンが制作する CD を販売する CD Baby を正に作った人で、最近読んだ本によると音楽の売り上げにより CD Baby がミュージシャンに支払った総額は一千万ドル以上になり、Derek Sivers は "real deal"(本物の漢)と紹介されている。そして、気がつくと何とその日本版である CD Baby Japan ができていた! これは楽しみである。
これを訳した動機ははっきりしている。営業である。いや、つまり、何かワタシに訳せそうな本はないか探していたということなのである。この本だからというより、昨年の夏あたりはどういうわけか、手当たり次第自分に訳せる本がないか探していたのである。
ただ実際にはこの本の話を編集者に相談する前にいろいろと忙しくなってしまい、しばらくして既に翻訳が進んでいることを教えられ、なーんだとなったのだが。ただ、当方の推測が正しいなら訳さなくて正解だったかもしれないがどうなんだろう。Ed Felton は、オープンソースが成功する理由を分析した本の中ではこの本がベストとレコメンドしていたが。
MITのフリーソフトウェア/オープンソース関連論文集積所なんてものもできているが、オープンソースについてのアカデミックな研究も本格化しつつあるのだろう。これも以前書いたことであるが、『The Success of Open Source』の著者である Steve Weber は、オライリーの『Open Sources 2.0』でも "Patterns of Governance in Open Source" という章を執筆している。
やはりアメリカの大統領選挙が気になっていたのだろう。当のアメリカ以外では多数の国の国民がブッシュ再選を望んでないように思える空気の中で、でもなんだかブッシュが勝ちそうな感じにやりきれなさを感じていたのが翻訳の動機なのは間違いない。
さて、ご存知の通りブッシュが再選されたわけだが、ブッシュプロジェクトリーダーが指揮する iRaq プロジェクトは、Foo-Sane システムの置き換えから大分経つ現在もデスマーチ続行中のようである。/bin/laden の挙動を正しくつかめていないというのがプロジェクトに影を落としているようだが、問題の切り分けとしてそれが Foo-Sane システムと連動しているということ自体否定されているわけで……
これを訳す少し前から Skype が気になっていて、でもその時点でとっくに乗り遅れた感じで実際優れた解説サイトはいくつもできていた。Skype を題材にした、ちょっと目先の変わった文章を訳したいと思っていたらちょうどこの文章に出会ったということ。こうした文章は肩に力を入れずに訳せるので楽しい。この文章の実現性については、Tomo さんのエントリを参照いただきたい。
この文章はただの飛び道具で訳したのではなくて、Skype の D-BUS API の話なんかもちゃんと触れていて、これに興味をもってくれる人が出てくればなと思ったことを覚えている。ただまあ、このことを認知されるようになったのは、kinneko さんが取り上げてからだろうけど。
最近の話で言えば、Skype Conference 2005 は非常に有意義だったが、eBay に買収された Skype は来年も今年同様の拡がりを見せてくれるのだろうか。多分、来年あたりに勝負が残酷に決まるのだろうな。
『Wiki Way』訳者のくせに Wikipedia について関心を持つのが遅れたと感じていたので、とりあえずは主催者はどんな奴なんかいと彼のブログから適当なエントリを選ばせてもらった。
これを訳した2004年後半の時点で Wikipedia は相当な規模に達しており、これだけのものをまとめる人物というのはプラクティカルな割り切りをしている人間だろうと勝手に思い込んでいたら、実は非常に「自由」についての意志が強くて驚いた覚えがある。
Jimmy Wales は2005年の夏 Lessig Blog でゲストブロガーを務めたが、そこでも「今後フリーになる10のもの」というエントリを書き、自由を押し広げる意志を改めて示している。
その問題の10のものだが、結局はゲストブロガー時には明かされなかったが、今年開かれた Wikimania 2005 での基調講演 Ten Things That Will Be Free を見てもらえばよいだろう。もちろんフリーで公開されている。
これもまず人への興味ありき。つまり、今をときめく P2P ファイル共有ソフトウェア BitTorrent の作者 Bram Cohen に対する関心があり、彼の文章で何か訳せそうなものはないかと探したわけである。かなり古い文章だが、普遍的な内容を持っていると思う。
やはり人への興味というのは翻訳の主要な動機なんだな。そうした意味で、ワタシは「翻訳首狩人」という呼び名が相応しいのかもしれない。
Bram Cohen という人もアスペルガー症候群という持病もあってどこか浮世離れしたハッカー的に描写されている記事もあるが、BitTorrent Inc. は今やオープンソースの注目新興企業である。彼自身実務もきっちりこなしているのか、そうした面をサポートする有能な人がいるのか、オープンソースビジネスを考える意味でも誰かにレポートしてもらいたいところだ。
この文章は別の文章を探し、その後でいろいろネットサーフィンしていて偶然行き当たったもので、Jeffery Veen の名前を何年ぶりに見かけて懐かしい気分になって彼の文章を訳そうと思ったのを覚えている。昔、一度だけ彼の文章を引き合いに出したことがあったのだ。
この文章は adaptive path のサイトで公開されているが、ここにいる人は何かと類縁があって、一躍 Ajax の呼び名を世に知らしめた Jesse James Garrett はご存知の通り『ウェブログ・ハンドブック』の著者 Rebecca Blood の旦那さんだし、彼女の weblogs: a history and perspective によれば "blog" という呼称のきっかけを作った Peter Merholz も adaptive path にいる。
閑話休題。本文だが、ごく初歩的のようでありながら実は全然守られていないポイントをついている文章だと思う。以前近藤淳也さんとお話する時間をいただいたときにドキュメンテーションについての不満を述べさせてもらったのだが、適切な言葉が浮かばずもどかしい思いをし、後でこの文章を読み直して、これにあるように「機能ベースでなく、最初に処理ベースのドキュメントを書け」と言えばよかったじゃないか、と当時訳したばかりのこの文章を思い出せなかったことを情けなく思ったものである。
これは『Wiki Way』訳者としての勝手な使命感でもって訳した。
少し前にも知り合いの編集者から、ある書籍編集においてメーリングリストと Wiki の併用に失敗したために作業が混乱をきたした例を教えてもらったが、Wikipedia が単純に「これだけのリソースがネット上にフリーで公開されている!」と無邪気に喜ぶ段階を過ぎ、いろんな立場から厳しい目を向けられ試練のときを迎えているのに代表されるように、Wiki 全般に関しても呑気に利用事例そのものをもって成果ではなく、その効用をシビアに見極めないといけないのは間違いない。
ワタシも埋め草雑文を書いている Software Design の連載「Wikiつまみぐい」も Wiki の面白さを伝えるとともに、Wiki 病防止の一助となればと思うわけだが。
この文章と、それに続いて訳した Ed Felton の「音楽のない世界」は、これから取り掛かる仕事の肩慣らしのつもりで訳したものである。
いずれもテクノロジーと音楽の関わり、更に言えばテクノロジーにより広がったはずの音楽の地平を無理に規制しようとした際の陥穽についての文章である。特に「DRMと音楽研究」は短いが、安易な決定が未来の可能性を閉ざしてしまうことを説いた恐ろしい文章である。これでは大げさに言えば、ローマ時代に華開いた各種技術や文化的成果が忘れ去られてしまったヨーロッパ中世の暗黒時代の再来ではないか。
テクノロジーと音楽が切り離せない不可分なものであるのは昔からで、最近になって始まったことではない。しかし、デジタル音楽配信の時代になり、テクノロジーと音楽の関わりが新しい段階に入ったのは確かだろうし、それは止められない。
ワタシもその音楽の未来に関わる仕事ができれば、と思う。